4. 小さなやり取り
中野先生は、授業で私を冷たく責め立ててくることがなくなった。
以前のように意図的な厳しさをぶつけてくることもなければ、皮肉な言葉を投げることもない。
他の生徒と同じような距離感で、無機質に授業を進めていく。相変わらず表情は乏しく、感情の起伏もない。私にだけ特別な視線を向けることもなかった。
——だけど、それでよかった。
むしろ私はほっとしていた。
あの夜のことが夢だったように、日常は何事もなかったように流れていく。
私の中での中野先生はもう、〝ただの数学教師〟ではなくなっていた。
あの日聴いた旋律が、私の世界を変えてしまった。
数式よりも音色が、解法よりも旋律が、ずっと心の奥を震わせていた。
あの音に出会ってしまったから、もう知らなかった頃には戻れないような気がした。
◇
放課後の旧校舎、音楽室。
鍵を開ける手は慣れた動きになりつつあるけれど、胸の高鳴りだけは毎回抑えきれない。
誰もいないはずのこの場所で、私はまたひとり、鍵盤に向かっていた。
静かなこの空間は、もう私にとって秘密の居場所のようだった。
譜面台には何も置かず、私はいつものように椅子に腰を下ろす。
鍵を貸してくれる蒲田先生は、今日も何も聞かない。ただ静かに笑って、変わらぬ手つきで鍵を貸してくれた。その無言の信頼がありがたかった。
私は今日も『愛の夢 第3番』の旋律を、指先の記憶だけでたどっていく。
何度も繰り返したフレーズなのに、音がうまくつながらないことは日常茶飯事だ。
指がもつれて、1小節目すら満足に弾けない日だってある。
それでも、私はあきらめなかった。
懲りずに、何度も、何度も弾いた。
——中野先生の音に、すこしでも近づきたかった。
たとえ誰にも届かなくてもいい。
それでも私は、先生が奏でた音の残響を追いかけたかった。
そう思いながら、鍵盤に指を置いたその瞬間——
「……左手が、疎かです」
「え!?」
まるで空気の振動にまぎれるように、その声は正面から飛んできた。
瞬間、喉がきゅっと締まる。わずかな震えが、喉から胸へ、そして指先へと伝わった。
私は思わず手を止め、ゆっくりと視線を上げる。
そこには、中野先生が静かに立っていた。
扉の影に溶け込むようにして佇む先生。
けれどその眼差しだけは、まっすぐ私を見据えていた。
「中野先生……」
名前を呼ぶと、先生は何も言わずにゆっくりと歩いてくる。
その歩幅は落ち着いていて、でもどこかぎこちなさを感じる。
距離を詰めるたびに、空気の密度が変わっていくようだった。
私の隣に立つと、先生は視線を鍵盤に落としたまま小さく口を開く。
「……それと、ペダルは踏み込みすぎると、響きが滲みます」
たったそれだけ。
でもその一言が、今の私には痛いほど沁みた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚がする。
先生は、鍵盤にそっと指を置いた。
そして何の前触れもなく——たった数音だけ、旋律を紡いだ。
音が、一瞬で空気を変えた。
さっきまで私が奏でていた音とは、まるで次元が違う。
優しくて、切なくて、熱を秘めていて。
それでいて、どこまでも静かで、深く澄んでいた。
たった数音。ほんの2小節。
それだけなのに、そこには言葉よりも深く、何かが宿っていた。
優しくて、脆くて、触れたら壊れてしまいそうな——それでも、何にも負けないような、確かな強さ。
数秒の演奏が終わると、先生はゆっくりと手を引いた。
その手の微かな震えを、私は一瞬たりとも見逃さなかった。
「……届いています。あなたの音は」
「……え?」
か細い声だった。消えてしまいそうな、儚い響き。
表情はいつも通りで、感情は読み取れない。
その横顔からは、言葉にならない何かが伝わってくる気がした。
先生はそれ以上、ほんとうに何も言わなかった。
ただ静かに、その場を離れていく。
音も立てずに扉へ向かう。
私はその背中を、ただ見送ることしかできなかった。
先生は振り返らない。
けれど——あの人の音は、今もまだ、この空気の中に残っていた。
「……」
私はゆっくりと手を伸ばす。
もう一度、ピアノに向き直る。
鍵盤に触れる指先が、微かに震えていた。
でも今度は、迷いがなかった。
そっと音を重ねていく。
私の音が、中野先生にに届いていた……?
言われた言葉を、何度も何度も心の中で繰り返す。
それだけで、胸の奥がいっぱいになって——気づけば、涙がひとつ零れ落ちていた。
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