3. 真似事の音
今日も私は、鍵盤の上にそっと手を置いた。
放課後の旧校舎にある音楽室。誰もいない静かな空間に、私だけがぽつんと座っている。
中野先生がかつていたこの場所に、今度は私がいる。そう思うだけで、胸の奥がほんのすこしざわついた。
あれから、私は毎日のようにここへ通っていた。
「練習してみたい曲があるんです」
蒲田先生には、それだけを伝えた。驚くほどあっさりと鍵は貸してもらえたけれど、ほんとうはもっといろいろ聞かれるのではないかと、内心はすこし構えていた。
けれど蒲田先生は、それ以上は何も言わなかった。ただときおり、ちらりと中野先生の方を見るその視線に、淡い疑念が滲む。
もしかしたら、蒲田先生は知っているのかもしれない。
中野先生の〝無表情〟の奥に隠された〝何か〟を。
私はゆっくりとペダルに足を乗せた。
指先を動かし、最初の音を確かめるように押さえる。
フランツ・リストの『愛の夢 第3番』——小学生のころからずっと好きだった曲。けれど今は、その旋律がまるで違う意味を持って私に響いている。
私の音は先生のように響かない。
だいたい、最初の3小節しかまともに弾いたことがない。楽譜も完全には覚えていないし、指だって固くて思うように動かない。
旋律は頭の中で繰り返されているのに、音は薄く、それに乗る感情も浅く感じる。うろ覚えの記憶をなぞっているだけのような音が、部屋の中にぽつぽつと落ちていく。
頭の中には、あの日の中野先生の演奏が残っていた。
静かで、優しくて、甘くて、どうしようもなく切ない音だった。でも強くて、柔らかくて、切実で……あれは紛れもない〝本物〟の音だった。
私の音は——それに遠く足元にも及ばない。
まるで真似をしているだけのようだった。
「……」
深く息を吸い、もう一度だけ最初から弾き直してみる。
今度は丁寧に、焦らずに、ひとつひとつの音を確かめながら。
音はすこしずつ連なって、旋律がゆるやかに流れていく。
この音は、誰かに届くのだろうか。
自分のために弾いているはずなのに、心のどこかで誰かに届けたくて仕方がない。
たとえばあの時の私のように——音楽室の外で、扉に耳を寄せる誰かがいてくれたら。
もちろん、そんな気配などない。けれど想像してしまうのだ。
もし今、この不完全な音を中野先生が聴いたら、どんな表情を浮かべるのだろうか。
ほんのすこしだけ、笑ってくれるだろうか。それとも無表情のまま、静かに背を向けるのだろうか。
そんなことを考えていたら、演奏は途中で止まってしまった。
音の流れがふと途切れて、私は溜息をつきながら鍵盤から手を離す。
音楽室の空気は、さっきまでの旋律をまだ微かに引きずっているように思えた。
外はもう夕暮れに染まりかけていて、窓から差し込む光が床に斜めの影を落としている。
胸の奥に、淡いもやがかかったような感じだった。
どうしても、うまく弾けない。
私がピアノを弾きたいと思ったのは、中野先生の音に心を奪われたからだ。あの一瞬の演奏に、私は深く惹かれてしまった。
けれど今の私は——ただ、先生の真似事をしているだけなのではないか。そんな思いが、じわじわと心を侵食していく。
鍵を返す時間が近づき、私はピアノの蓋をゆっくり閉じる。
音楽室は再び静寂に包まれ、その静けさがすこしだけ寂しく感じられた。
扉の前に立ち、最後にもう一度だけ部屋を振り返る。
ピアノが好き。ピアノが弾きたい。
でも、それ以上に私は——中野先生が奏でるピアノを、もう一度聴きたいのだと思った。
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