2. 記憶への一歩
放課後のチャイムが鳴り終わったあと、私はひとりで職員室の前に立っていた。
ノックする手が、ほんのすこし震える。
けれどそれ以上に——私は今、行動を起こしたくて仕方がなかった。
あの旋律を聴いてからずっと胸の奥がざわついていて、何かせずにはいられない。
意をけっして扉を開けると、夕方の光が差し込んだ室内に、教師たちの静かな声が飛び交っていた。
空気は落ち着いている。
日常の延長にあるはずなのに、私の鼓動だけが浮いていた。
一番奥にいる中野先生は、机に向かって書類に目を落としていた。
その表情はよく見えないけれど、いつもより背中が遠く感じる。
私はその視線をそのまま動かし、入り口近くにいた音楽担当、蒲田先生の元へ向かった。
「……あの、蒲田先生」
声がうわずらないように、途中で深呼吸をする。そして、できるだけ丁寧な言葉を選んだ。
「すこしだけ……旧校舎の音楽室を使わせてもらうことはできますか? ピアノを弾きたいんです」
蒲田先生は私の顔を見ると、すこしだけ目を丸くした。けれど、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「あら、藤里さんってピアノが弾けるの?」
「い……いえ、そうではありませんが。昔弾いていたので、すこし、触れたくなって……」
そう答えると、今度は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そうなの。ほんとうは旧校舎はダメなんだけど、藤里さんならいいわよ。鍵……ちょっと待ってね」
蒲田先生は席を立ち、壁に据えられているキーケースに向かう。
その間、残された私は、無意識に中野先生の方へ視線を向けてしまった。
中野先生は気づいている様子がないし、そもそもこちらに気をかける素振りもない。
この会話が聞こえていないこともないだろう。
けれど、何も反応を示さなかった。
その沈黙が、余計に心をざわつかせる。
「はい、これ。戸締りだけはよろしくね」
そう言って差し出された鍵を、私は小さく頭を下げて受け取った。
「あ、でも……旧校舎は中野先生が……」
「……」
「あ、いや、なんでもない」
蒲田先生はそっと顔を動かし、中野先生の方をちらりと見る。
私は一瞬、動きを止めた。
でも蒲田先生は、それ以上何も言わなかった。
「どうぞ」
「……ありがとうございます。終わったら、また返しに来ます」
深く一礼をして、踵を返す。
胸の奥に小さな引っかかりを残しながら、私は職員室をあとにした。
◇
音楽室の鍵を差し込み、ゆっくりと扉を開ける。
静寂とこの部屋特有の匂いが、私を迎えてくれた。
カーテンの隙間から漏れる西日が、白い床に金色の筋を描く。
ただの音楽室なのに、どこか新鮮で、特別な感情に包まれていた。
胸の奥がじんわりと熱くなり、足を一歩踏み出すごとに心臓の音が強くなる気がする。
私は静かにピアノに近づき、ゆっくりと椅子に座った。
鍵盤の蓋を開けて、そっと手を伸ばす。
「……」
中野先生が、あの日奏でた『愛の夢 第3番』が蘇る。
うろ覚えでもいい。どうしても今、弾いてみたかった。
最初の音を押さえると、柔らかい音が小さく漏れ出す。
その一音が、妙に特別に思えた。
けれど、どこか違う。
たったそれだけなのに、どこか違った。
同じ鍵盤なのに。
どうして中野先生の音は、あんなにも心に響いたのだろうか。
私は固くなった指を動かしながら、その〝違い〟を追いかける。
それはまるで、記憶をなぞるような作業だった。
思い出の片鱗を必死にかき集めるような、繊細で不確かな探求。
そもそも先生とは状況が違う。
数年ぶりのピアノで、楽譜も曖昧に覚えている私では、先生と同じ音が出せるわけがないのだ。
音がうまくつながらない。手も昔のようには動かない。
指が鍵盤の上を迷い、たびたび立ち止まりながら、それでも私は音を追った。
先生の音は、もっと優しかった。
もっと、切実だった。
それなのに私の音は——なんて浅くて、形ばかりなのだろうか。
そう思う一方、鍵盤に置く指先たちは、震えて止まらないほど感情を帯びていた。
間違えても、止まっても、思い出せる限り指を動かし続ける。
音はけっして整っていない。
人に聞かすことなんて、絶対にできない。
だけどこの胸の奥に眠る想いを、どうにかして音に託したかった。
誰もいない音楽室には、私の不完全な『愛の夢 第3番』だけが、微かに響き揺れ動いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます