第3章 奏でる旋律
1. 仲間の気遣い
あの日、音楽室で『愛の夢 第3番』を聴いて以来——中野先生は、また私の前から姿を消した。
それでも私は、毎日のように旧校舎の音楽室前に立っていた。
鍵はかかっている。
だけど、それでもまったく構わなかった。
ただあの場所に立つだけで、先生にすこしでも近づける気がしたから。
先生はあの時、何も言わなかった。
けれどあの旋律にこもっていた先生の感情は、今も私の胸の奥で静かに鳴り続けている気がする。
私はそれが幻でなかったことを確かめたくて、扉にそっと手を伸ばした。
でも——動かない。
扉は冷たく、静かに閉ざされたままだった。
◇
「莉乃、昨日も旧校舎に行ってたの?」
昼休み、咲良はお弁当を持って私の元にやってきた。
隣の席から椅子を引っ張り、すこし興奮気味に呼吸を荒くする。
なんだかとても楽しそうで、なんとも言えない気持ちになった。
「……うん、ちょっとだけ」
「中野先生、会えた?」
「……会えてないよ」
ニヤニヤと微笑んでいる咲良は、お弁当の蓋を開けて手を合わせた。
私はお弁当の箸を動かしながら、視線をすこし落とす。咲良の表情は、やはり楽しそうだった。
だけどそれ以上は何も聞いてこない。
ただ私の隣に座って、ゆっくりとご飯を頬張っている。
きっと〝優しさ〟って、こういうことなんだと思った。
咲良はもうわかっている。私が、先生の音楽だけを求めているわけではないってこと。
そして私自身も、その気持ちに気づき始めている。けれど、どうしても認めたくなくて、目をそらし続けている。
でも咲良はそれを責めずに、ただ隣にいてくれる。
その優しさが、ほんとうに居心地よかった。
咲良と他愛のない話をしながら、脳内には中野先生が奏でる音色が繰り返し再生される。
数あるクラシック音楽の中で、先生が『愛の夢 第3番』を弾いたこと。実はそれに、妙な縁を感じていた。
私も過去にピアノを習っていたが、指導してくれる先生に無理を言ってまで、『愛の夢 第3番』を練習していたからだ。
とはいえ、まともに教わりながら練習をしたのは最初の3小節くらいで、あとは独学だけれども。
『愛の夢 第3番』、それは小学校のときに聴いて以来、大好きな曲だった。
難しいけれど、弾きたくて、弾きたくて、どうしようもなかった。
だからこそ——中野先生が弾いていたあの時間が、余計に特別なものだと思えた。
ピアノが、大好きだった。
◇
放課後、生徒会室の扉を開けると、いつもと変わらない空気が流れていた。
「お、莉乃。今日も来たんだ」
中で先に作業していた司波が顔を上げて、軽く手を振る。机の上には、終わった生徒総会の議事録と、クラスマッチの開催要項と、去年の体育祭記録簿が置かれていた。
9月に行われる体育祭に向けて、夏休み前から準備が始まる。
ちょうど今が、それの取り掛かり時期だった。
「司波、お疲れ。なんか深川先生が頼みたいことあるって言ってて。それで来たんだけど」
「え、そうなの? 俺、なんも聞いてないなぁ」
そう言っていると、まさにタイミングを計ったかのように生徒会室の扉が開いた。
そして、書類を持った深川先生が入ってくる。
「藤里さん、呼んでごめんね。司波もいてよかった。ちょうどいい。体育祭運営に関する資料を持ってきたんだ。これを体育祭実行委員会に申し送りする必要があるから、精査して資料作成してほしいんだ」
先生はそう言って資料を机に置く。すると、タイミングがいいのか悪いのか、校内放送で呼び出しがかかった。
繰り返し呼ばれる名前に、先生は「えぇ~?」と気怠そうな声を上げる。小さく溜息をついて、軽く頭をかいた。
「いやぁ、すまん。職員室に戻るね。頼んだことだけよろしく」
両手を胸の前で合わせながら、急いで部屋を後にする。
静けさが訪れた生徒会室には、私と司波のふたりだけが残された。
「……資料作成なんて、莉乃だけじゃなくてみんなを呼べばいいのに。なんで莉乃だけに言ったんだ?」
「……さぁ」
司波は資料を整理しながら、何気ない口調で言った。
私も目の前にある資料を適当に取り、作業を始める。
静かな時間が、ゆるやかに流れる。
特に会話もなくて、お互いが作業に集中していた——その時、
「……なぁ、莉乃」
司波がふいに声を落とした。
「なに?」
「最近さ、やっぱり様子が変じゃね?」
「え……?」
驚いて思わず顔を上げる。
彼は資料から目を離さないまま、静かに言葉を続けた。
「やっぱりボーっとしていることも多いし、考えごとしてるっぽいし」
「そ……そんなことないよ」
私は慌てて言い返す。
だけど、それらに説得力がないことは自分でもわかっていた。
司波はそれ以上、何も言わなかった。黙って手を動かしながら、静かに溜息をつく。
「……俺、さ」
ぽつりと、独り言みたいな声で呟く。
「高校に入学してから、けっこう莉乃のこと見てたんだよな」
「……え?」
「別に深い意味じゃなくてさ。ただ、いつも学年トップだろ? なんか……最初は羨ましくて。見てたって感じ」
気まずそうに目を逸らしながら、司波は書類を置く。
そして、まっすぐ私の目を見つめてきた。
「俺……莉乃が頑張ってるの、ずっと見てた。2年の時に生徒会で一緒になってからは、よりいっそう見てた。誰よりもきちんとしてて、優しくて、いつも自分には厳しい。なのに今の莉乃は……なんか違うんだよ」
その言葉に、胸がきゅっとなる。
司波の瞳が微かに揺れているように見えた。
「おせっかいなのはわかっている。けれど、心配なんだ」
なんだか……調子が狂う。
私は視線を落とし、書類に目を通した。
「……ありがとう。でも、ほんとに大丈夫だよ」
目を逸らしたまま明るく答えると、司波は小さく笑い声を上げた。
「そっか……ならいいけど」
でも、たぶん——司波にはばれている。
私が今、自分でも消化しきれていない感情を、彼はきっとどこかで察している。
それでも彼は優しいから、それ以上は聞いてこない。
その優しさが、すこしだけ苦しかった。
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