3. 昔からの習慣
陽も沈み始めた頃、私は職員室に向かう階段をゆっくりと上がっていた。
どこも部活は終わったのか。校舎内はやけに静かだった。
そんな中、私は今日もピアノを弾こうと思い、鍵を借りに職員室へ向かっていた。
ほんのすこし、心を落ち着けたくて——理由は、たったそれだけ。
職員室に入って、蒲田先生の方に向かう。そこで用件を話すと、今日の先生はすこし困ったような表情で首を傾げた。
「あら、藤里さん……今日はごめんなさいね」
柔らかく微笑みながら机の上にそっと手を置いていた。
「え……?」
「今日は、貸し出し中なの」
申し訳なさそうに言って、視線を下に落とす。
私は反対に視線を上げて、中野先生の席の方を見た。けれどそこには、先生の姿がなかった。
「——中野先生、ですか?」
私の問いに蒲田先生は驚いたように目を瞬き、すぐに小さく頷いた。
胸の奥が、またざわついた。
なんでもない、ただの偶然。だけど足は勝手に、旧校舎の音楽室へと向かっていた。
◇
音楽室の前に立った時、扉の隙間からはピアノの音が優しく漏れていた。
——フランツ・リストの『愛の夢 第3番』。
柔らかくて、憂いを帯びた旋律。
悲しみに溶けるような、優しい左手の和音に、右手が重なる。
どこか懐かしくて、触れたら壊れてしまいそうな音だった。
私は思わず、扉に手をかけるのを躊躇う。
けれど音が消えた次の瞬間、自分の心音が強くなった気がして——ノックもせずに、静かに扉を開けた。
窓辺に沈む陽が、音楽室の空気を柔らかく染めていた。
すこしだけ開いた窓から風が入り、優しくカーテンを揺らす。
その中に、ピアノの前に座る中野先生の姿があった。
しっかりとネクタイまで締めて、暑いのにジャケットまで羽織っている。
クラスマッチの時に見た先生は、どこにもいない。
ピアノ越しの姿が、どこか別の世界にいるように見えて、一瞬だけ息を止めてしまった。
「……すみません。音、聴こえたので」
「……」
そう言っても、先生は顔を上げない。
私は静かにピアノの横まで歩いた。
先生は椅子に座ったまま、右手をそっと鍵盤から離す。しばらく黙り続けたまま、ようやくこちらに目を向けた。
けれど、何も言わなかった。
「……先生って、スポーツも、ピアノもできるなんて……なんだか意外です」
「……」
「普段の先生からは、全然想像できないので……すごく意外で、でもすごく尊敬します」
思っていたよりも、声が上ずってしまった。
私の言葉に、先生はなぜかすこしだけ目線を外す。そして短く、静かに言った。
「……どちらも、昔からの習慣です」
中野先生は、それだけ言って再びピアノの方へと目を戻した。
まるで、そこにしか世界がないかのように。
すっと、目を細める。
だけど今、その世界の中に、ほんのすこしだけ私が入れている気がして——そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「昔って……」
言いかけて、私は口を閉じる。
クラスマッチのとき。スーツのままバスケに参加して、無表情でゴールを決めた中野先生。
あれが〝習慣〟の延長なのだろうか。
あの時の歓声や笑顔に、先生はどんなふうに感じていたのだろうか。
昔って……何。
先生の過去——そのことに、初めて興味が湧いた。けれど、言葉を継ぐ勇気がなくて、言葉が喉に詰まる。
「やっぱり、なんでもないです」
結局、私はそう言って笑った。
無表情の先生は、また何かを言いかけたようだった。
でもそれは言葉にならないまま、空気に溶けていく。
代わりに、椅子の上で身体をすこしずらして、静かに呟いた。
「弾きますか?」
思わず、目を見張る。
「え……いいんですか?」
先生は頷いた。
ただそれだけ。だけど、その〝許可〟が、先生にとってどれほどなものか、私にはわかっていた。
私は小さく会釈をして、先生の左側に立つ。
先生の隣に座るには、まだ勇気が足りなかった。
けれど、すこしだけ鍵盤に手をのせて、ぽつりと呟いた。
「……先生のピアノ、好きです」
その言葉に、中野先生の手が一瞬だけ止まった。
でも、それだけ。
いつものように返事はない。けれど今は、それでもいいと思えた。
心臓が飛び出そう。
うるさい音が先生に聞こえないか、そればかりが気になって仕方がない。
「……」
鍵盤に左手を置いて、私はそっと息を吸う。
そして小さく頷いて、私は『愛の夢 第3番』の冒頭を左手だけで奏でた。
つたなくて、音もぎこちない。何度も間違えた部分だし、そもそもまだ弾けるようになっていない曲だ。
下手くそで、3小節しか弾けない。
それでも私は、先生の隣で、どうしても——弾きたかった。
ひとつ、またひとつと、音を奏でていく。
ゆっくり、たどたどしく、それでも真剣に。
隣では、中野先生が何も言わずに座っていた。
姿勢を崩さず、腕も組まず、ただ、静かに目を伏せている。
怒られるかな。
下手だなって、思われるかな。
そんな不安が、途中で何度も頭をよぎった。
でも——止まらずに、弾けるところまで弾ききった。
最後の音が消えて、静寂が音楽室を満たす。
私は肩でそっと息をして、手を膝の上に置いた。
「……ごめんなさい。下手くそな音を、聴かせてしまって……」
照れ隠しに笑いながら、ちらりと先生を見る。
中野先生は、何も反応しない。ただ小さく目を閉じたままだった。
そして、ぽつりと。小さく言葉を漏らす。
「練習、してるんですね」
それだけだった。
褒めるでも、指導するでもない。
ただその一言が、なぜか心に沁みた。
「……はい。一応……練習してます」
返事をした声が、すこしだけ震えていた。
先生はそれには答えず、静かに立ち上がる。
音もなく歩き、机の上に置かれていた譜面ファイルを手に取った。
「あなたが奏でるこの曲は、初級用の簡単な譜面によるもの。でも、初級だからと侮れません。運指が難しいんです。それに、感情を込めすぎても、抜きすぎても、置いてけぼりになります」
背を向けたままのその声は、淡々としているのに、どこか遠くを見ているようで。私は、なんて返せばいいのかわからずに——ただじっと、その背中を見つめていた。
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