3. 昔からの習慣


 陽も沈み始めた頃、私は職員室に向かう階段をゆっくりと上がっていた。

 どこも部活は終わったのか。校舎内はやけに静かだった。

 そんな中、私は今日もピアノを弾こうと思い、鍵を借りに職員室へ向かっていた。

 ほんのすこし、心を落ち着けたくて——理由は、たったそれだけ。


 職員室に入って、蒲田先生の方に向かう。そこで用件を話すと、今日の先生はすこし困ったような表情で首を傾げた。

「あら、藤里さん……今日はごめんなさいね」

 柔らかく微笑みながら机の上にそっと手を置いていた。

「え……?」

「今日は、貸し出し中なの」

 申し訳なさそうに言って、視線を下に落とす。

 私は反対に視線を上げて、中野先生の席の方を見た。けれどそこには、先生の姿がなかった。

「——中野先生、ですか?」

 私の問いに蒲田先生は驚いたように目を瞬き、すぐに小さく頷いた。

 胸の奥が、またざわついた。

 なんでもない、ただの偶然。だけど足は勝手に、旧校舎の音楽室へと向かっていた。



 音楽室の前に立った時、扉の隙間からはピアノの音が優しく漏れていた。

 ——フランツ・リストの『愛の夢 第3番』。

 柔らかくて、憂いを帯びた旋律。

 悲しみに溶けるような、優しい左手の和音に、右手が重なる。

 どこか懐かしくて、触れたら壊れてしまいそうな音だった。

 私は思わず、扉に手をかけるのを躊躇う。

 けれど音が消えた次の瞬間、自分の心音が強くなった気がして——ノックもせずに、静かに扉を開けた。


 窓辺に沈む陽が、音楽室の空気を柔らかく染めていた。

 すこしだけ開いた窓から風が入り、優しくカーテンを揺らす。

 その中に、ピアノの前に座る中野先生の姿があった。

 しっかりとネクタイまで締めて、暑いのにジャケットまで羽織っている。

 クラスマッチの時に見た先生は、どこにもいない。

 ピアノ越しの姿が、どこか別の世界にいるように見えて、一瞬だけ息を止めてしまった。

「……すみません。音、聴こえたので」

「……」

 そう言っても、先生は顔を上げない。

 私は静かにピアノの横まで歩いた。

 先生は椅子に座ったまま、右手をそっと鍵盤から離す。しばらく黙り続けたまま、ようやくこちらに目を向けた。

 けれど、何も言わなかった。

「……先生って、スポーツも、ピアノもできるなんて……なんだか意外です」

「……」

「普段の先生からは、全然想像できないので……すごく意外で、でもすごく尊敬します」

 思っていたよりも、声が上ずってしまった。

 私の言葉に、先生はなぜかすこしだけ目線を外す。そして短く、静かに言った。

「……どちらも、昔からの習慣です」

 中野先生は、それだけ言って再びピアノの方へと目を戻した。

 まるで、そこにしか世界がないかのように。

 すっと、目を細める。

 だけど今、その世界の中に、ほんのすこしだけ私が入れている気がして——そのことが、どうしようもなく嬉しかった。

「昔って……」

 言いかけて、私は口を閉じる。

 クラスマッチのとき。スーツのままバスケに参加して、無表情でゴールを決めた中野先生。

 あれが〝習慣〟の延長なのだろうか。

 あの時の歓声や笑顔に、先生はどんなふうに感じていたのだろうか。

 昔って……何。

 先生の過去——そのことに、初めて興味が湧いた。けれど、言葉を継ぐ勇気がなくて、言葉が喉に詰まる。

「やっぱり、なんでもないです」

 結局、私はそう言って笑った。

 無表情の先生は、また何かを言いかけたようだった。

 でもそれは言葉にならないまま、空気に溶けていく。

 代わりに、椅子の上で身体をすこしずらして、静かに呟いた。

「弾きますか?」

 思わず、目を見張る。

「え……いいんですか?」

 先生は頷いた。

 ただそれだけ。だけど、その〝許可〟が、先生にとってどれほどなものか、私にはわかっていた。

 私は小さく会釈をして、先生の左側に立つ。

 先生の隣に座るには、まだ勇気が足りなかった。

 けれど、すこしだけ鍵盤に手をのせて、ぽつりと呟いた。

「……先生のピアノ、好きです」

 その言葉に、中野先生の手が一瞬だけ止まった。

 でも、それだけ。

 いつものように返事はない。けれど今は、それでもいいと思えた。

 心臓が飛び出そう。

 うるさい音が先生に聞こえないか、そればかりが気になって仕方がない。

「……」

 鍵盤に左手を置いて、私はそっと息を吸う。

 そして小さく頷いて、私は『愛の夢 第3番』の冒頭を左手だけで奏でた。

 つたなくて、音もぎこちない。何度も間違えた部分だし、そもそもまだ弾けるようになっていない曲だ。

 下手くそで、3小節しか弾けない。

 それでも私は、先生の隣で、どうしても——弾きたかった。

 ひとつ、またひとつと、音を奏でていく。

 ゆっくり、たどたどしく、それでも真剣に。

 隣では、中野先生が何も言わずに座っていた。

 姿勢を崩さず、腕も組まず、ただ、静かに目を伏せている。

 怒られるかな。

 下手だなって、思われるかな。

 そんな不安が、途中で何度も頭をよぎった。

 でも——止まらずに、弾けるところまで弾ききった。


 最後の音が消えて、静寂が音楽室を満たす。

 私は肩でそっと息をして、手を膝の上に置いた。

「……ごめんなさい。下手くそな音を、聴かせてしまって……」

 照れ隠しに笑いながら、ちらりと先生を見る。

 中野先生は、何も反応しない。ただ小さく目を閉じたままだった。

 そして、ぽつりと。小さく言葉を漏らす。

「練習、してるんですね」

 それだけだった。

 褒めるでも、指導するでもない。

 ただその一言が、なぜか心に沁みた。

「……はい。一応……練習してます」

 返事をした声が、すこしだけ震えていた。

 先生はそれには答えず、静かに立ち上がる。

 音もなく歩き、机の上に置かれていた譜面ファイルを手に取った。

「あなたが奏でるこの曲は、初級用の簡単な譜面によるもの。でも、初級だからと侮れません。運指が難しいんです。それに、感情を込めすぎても、抜きすぎても、置いてけぼりになります」

 背を向けたままのその声は、淡々としているのに、どこか遠くを見ているようで。私は、なんて返せばいいのかわからずに——ただじっと、その背中を見つめていた。


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