4. 別れの曲


 練習曲作品10第3番 ホ長調。

 ショパンが作曲した、ピアノのための練習曲だ。

 日本では『別れの曲』というタイトルで親しまれる、あの曲。

 私もピアノを習っていたとき、たくさん練習をしてきた。

 結局最後まで弾き切ることはできなかったけれど、思い出の詰まった大切な旋律だった。


 そんな『別れの曲』が、今日も音楽室から漏れて聴こえてきていた。

 やはり蒲田先生とは違う。

 私にピアノを教えてくれた、習い事の先生とも違う。

 もちろん、私自身とも違う。

 優しくて、温かくて、どこか甘さや切なさすら感じる音色が、今日も私の心に染み入っていた。

「……」

 音楽室の扉に手を掛けて、立ち尽くす。

 今日はこっそり盗み聞きをせずに、真正面から中野先生と向き合おうと思っていた。

 あれだけ冷たくされたのに。

 あれだけ突き放されたのに。

 それでも私は、先生ときちんと話をしたいと思ってしまっていた。

 どれだけ拒まれても。

 私の想いを、素直に伝えたいと思った。


 今も部屋の中からは、『別れの曲』が聴こえてくる。

 その音に耳を澄ませながら——私はゆっくりと、音楽室の扉を開けた。

 中には、ピアノを弾く中野先生がいる。

 ほんのすこしだけ頬を緩ませて、優しく向き合っていた。


「……中野先生」

「……」

 私が呼びかけた瞬間、先生の指が止まる。

 ふと上げたその顔は、いつも通りの無表情だった。

 冷たい空気。まるで私という存在を、まったく必要としていないような、あの目。心が負けそうになるのを抑えながら、まっすぐ先生を見つめた。

「……また、ストーカーですか」

 授業のときと同じ——氷の破片のように鋭く尖った言葉が、私の胸の奥を抉る。

「……違います」

 私は咄嗟にそう返すけれど、先生は興味すら示さない。

 感情がひとつも読めない目で、同じようにまっすぐ私を見据えていた。

「私は、堂々とお話をしに来ました。中野先生と、お話がしたいです」

「……僕は、あなたと話すことはありません」

 そう告げる先生の声が、ただただ冷たくて、どうしようもなく胸が痛い。

 私がここに立っていることになんの意味もないと、強く言い切られたような気がした。

「私、先生のピアノが好きです」

「それはあなたの都合です」

「……でも、どうしても気になります。私、中野先生と……きちんとお話がしてみたかったのです」

「あなたが僕を気にする必要はありません。僕は、あなたに気にされるために、弾いているわけではありませんから」

 投げかけられる言葉すべてに、棘がまとわりついている。

 それがしっかりと刺さり、私の胸を強く抉り続ける。

 先生は今も、無表情のままだった。

「私、先生のピアノを間近で聞きたいです」

「……無理です」

「どうしてですか?」

「それをあなたに話す必要もありません」

 先生はそう言って、ゆっくりと鍵盤の蓋を閉めた。

「……」

 気になる気持ちは、単に先生が弾くピアノに惹かれるから。

 私が大好きなピアノで、聴く人の心を揺さぶってくれる。そんな優しい演奏に、大変興味を抱いたから。

 気になって、気になって、仕方がない。

 ほんのすこしだけ緩む表情も、指先も、中野先生がピアノと向かう様子のすべてが気になって、どうしようもない。

「……あなたに、私の時間を使う価値はありません」

「それでも私は、先生とお話して、間近でピアノを聴きたいです」

「……」

 黙り込んだ先生は、椅子から静かに立ち上がった。そして私の方をいっさい見ずに、扉に向かう。

 その途中、一瞬だけ足を止めた。

 でも結局、何も言わずにそのまま去って行く。

「あ、先生、鍵——」

「あなたが施錠をして、職員室に戻しておいてください」

「……」

 ひどく冷たい声が、強く胸に刺さる。

 痛くて、苦しくて、どうしようもない。

「そんなに突き放さなくてもいいじゃん……」

 私は滲む涙を制服の裾で拭い、ゆっくりとピアノの方に歩み寄った。

 そっと鍵盤の蓋を開けて、優しく『ド』の音を鳴らしてみる。

 ポーンっと軽い音が響き渡るのと同時に、鍵盤に触れる感覚が久しぶりで、また涙が溢れ出た。

 この鍵盤の上で、中野先生は指を躍らせて、あの音色を奏でている。

 そう思うと、妙な想いが湧き起こる。

「……」

 私は椅子に座り、両手を鍵盤の上に置いた。

 そして——昔の記憶を辿りながら、指を動かしてみる。

 さっきまで中野先生が弾いていた、ショパンの『別れの曲』だ。

 最後に弾いたのは、中学2年生の頃だろうか。

 レベルに見合っていないのに、どうしても弾いてみたくて、習い事の先生を困らせた事実がある。

 記憶を辿るだけのつたない指の動きに、思わず自分で笑ってしまった。

 どうしようもないくらい、下手くそだった。

 途中で何度も止まって、間違えて、音が途切れる。

 でも、それでも。私の指は、またすぐに動き出した。

 たぶん——いや、やはり、私はピアノが大好きなんだ。

 あの頃からずっと、何も変わらない。聴くのも、弾くのも大好き。

 だけどいつの間にか、私の中でピアノは〝諦めたもの〟になっていて。親には反抗できないから、離れるしかなくて。

 好きだって認めること、ピアノの音色に触れること。それらさえ、どこか怖くなっていた。

「……」

 鍵盤に置いた指先が、小さく震える。

 私が好きだったもの。

 私が大切にしていたもの。

 ゆっくりと取り戻していくように、もう一度鍵盤に触れた。

 ぽつり、ぽつりと、途切れながらも『別れの曲』を奏でていく。

 途中で音を間違えて、手を止めては、また動かして。

 その繰り返しの中で、私はまたすこしだけ笑った。

「……やっぱり、好きだな」

 誰に聞かせるわけでもなく、ただ自分に向かってそう呟く。

 中野先生のようには弾けない。

 そんなことくらい、当たり前のようにわかっていた。

 先生のような美しい音には、ならない。

 下手で、誰かに聴かせられる代物でもない。

 だけどもう一度……私だって、もう一度ピアノを弾きたかった。

「……」

 涙が溢れて止まらない理由が、よくわからない。

 ただ静かな音楽室に、つたないピアノの音だけが響く。


 私が好きだったものを、私はまだ好きでいていいのだろうか。

 鍵盤に触れながら、そんなことをぼんやりと考えていた。


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