3. 心からの拒否


 中野先生は、28歳らしい。


 生徒会の活動でまた深川先生とふたりになったとき、しれっと聞いてみた。ただ、中野先生の年齢だけを聞くのは怪しいから、深川先生の年齢を聞く流れで。

 深川先生は34歳らしい。思っていたよりも若かった。


「てか、藤里さん。最近どうしたの?」

「どうとは……何が、ですか?」

「いや、何かと中野先生のことを聞いてくるからさ」

 ニヤニヤと楽しそうに微笑んでいる深川先生に、思わず溜息が漏れる。この人のノリは男子高校生と同じだ。なんとなく……そう思う。

 私に『中野先生のことが気になる』と言わせたいんだろう。でも、私の口はそんなに軽くない。

「……別に、何もありませんよ。それより、次のテストに出す問題を教えてください。化学、満点取りたいんで」

「ええー? 突然何それ、教えないし~」

 なんて言いつつ、深川先生はなぜか「うーん」と唸り出す。

 私は深川先生の脳内を担当科目である化学に切り替えて、また小さく溜息をついた。

 中野先生、28歳。

 これを知ったところで何もない。けれど、なんだか妙に嬉しかった。



 生徒会の活動が終わった後、私は部活に向かおうとしたのをやめて……旧校舎の方に向かった。

 昨日拒絶されたけれど、それでも気になる気持ちの方が勝る。

 中野先生のピアノが聴きたい。

 いつの間にか私は、中野先生の姿を目で追うようになっていた。

「……」

 音楽室の前に着き、耳を澄ませる。

 今日も微かに聴こえてくる——ピアノの音。

 優しく奏でられている歌は、ショパンの『別れの曲』だった。

 私はすこしだけ扉を開けて、再び耳を澄ませる。

 丁寧で繊細な音の中に、強さも垣間見える中野先生の音色に、気づいたら私は涙を流していた。

 零れた涙は、頬を伝って制服の襟元に吸い込まれていく。

 胸の奥が痛いほど震えて、呼吸すらうまくできなかった。

 こんなにも心を揺さぶられる演奏があるのか。

 今までに聴いてきた誰のどんな演奏よりも、中野先生のピアノは、ほんとうに素敵で胸に響く。


 しばらくピアノに聴き入っていると、曲が終わり、すぐに足音が聞こえてきた。

 こちらに向かってくる気配に焦るも、当然間に合わず。

 扉の向こう側には、無表情の中野先生が立っていた。

「……藤里さん。またストーカーですか」

「……いえ」

「というか、なぜ泣いているのでしょうか?」

「……」

 中野先生の目を見つめながら、制服の袖で軽く涙を拭う。

 表情にまったく変化のない先生を見ていると、さらに涙が出てきた。

 私は裾で何度も拭いながら、まっすぐ先生を見つめる。

「中野先生が奏でるピアノの音色、ほんとうに素敵です。どうして、そんなに優しい音色が出るのでしょうか?」

「……」

 いつも無表情な先生の顔が、ほんのすこしだけ強張る。

 一瞬だけ、何かを言いかけるような気配を感じた。

 けれどその〝間〟は、すぐに閉じられる。

 静かな旧校舎に、私の荒い呼吸だけが響く。

 心拍数も徐々に上がって、胸が痛かった。

「……素敵ではないし、優しくもありません」

「え?」

「もう……お願いだから、関わらないでください。僕は、あなたに聴かせるために弾いているわけではありません」

 低くて冷たい声色で、ピアノから感じた優しさなんて微塵もなくて。

 全力で心を閉ざし、突き放そうとする中野先生は、いつも通りの無表情に戻っていた。

 荒く音楽室の鍵をかけて、私のことなど見向きもせずに階段へ向かう。

 それでもバカな私は……ますます中野先生のことが気になっていた。



 次の日の授業での中野先生は、いつも通りだった。

 私語を許さず、無表情で冷たくて、淡々としている。

 その授業を退屈だと感じる生徒は結構いる。面白くないし、難しいし、中野先生特有の、変な言い回しをするし。

 私もかつてはそうだった。

 けれど、今は違う。

 むしろ……どうしようもないくらい気になって、仕方がなかった。

 先生の指。

 先生の声。

 眼鏡越しに見える、やる気のなさそうな目。

 黒板に書かれる白いチョークの音が、今日はどうしてか、昨日よりも心に残っていた。

「……では、答え合わせをします」

 中野先生は、無表情のまま出席簿をめくる。

 そしてカレンダーを見て、まっすぐ前を見据えた。

「……出席番号23番。藤里莉乃」

「えっ?」

 名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。

 先生は私の名前を呼ぶときも、やはり感情の起伏は見せない。

 だけど、私は……ほんのすこしだけ、何かを期待してしまっていた。

 あの無機質な声の中に、何か特別なものが混ざっていないかと。そんな状況ではないのに。

「……早く、前へ」

 その声は驚くほど冷たかった。

 いつも冷たいはずの声なのに、それが今日は、妙に鋭く、痛く、冷え切って聞こえる。

「あ、はい」

 私は急いで前に出る。

 そして黒板に向かい、白いチョークを握ったが……今日の私は、どうしようもなく手が震えていた。

 先生は日頃から冷たいが、今日はそれ以上に冷たい気がする。

 私に刺さる視線がとにかく痛くて、震える手が治まらない。

「……」

 黒板の前で、必死に解答を書き進める。

 でもその途中で、先生の声が落ちてきた。

「……違います」

 その言葉は、まるで氷のようだった。

「なぜ昨日説明した内容を、翌日には忘れるのですか?」

 黒板を向いたままの私は、先生の方を振り返ることすらできなかった。

 先生の声は淡々としている。

 感情の欠片もない、事実を並べるだけの声色。

 それが怖くて……さらに手が震える。

「教科書にもプリントにも書いてあります」

 静まり返った教室に、先生の冷たい声だけが響く。

 他の生徒たちも、誰ひとり——物音ひとつ立てなかった。

 その空気を破るのは、誰であっても怖い。

 私はどんな空気のど真ん中で、冷たく突き放されていた。

「……確認すれば、すぐにわかることです」

「……」

 ——私、何をしているんだろう。

 勉強を中途半端にして、問題も解けなくて、ずっと中野先生のことが気になっていて。成績優秀だと評価されている身にも関わらず、一時の感情で自分すら見失いそうになる。

 先生は、私のことを見ていない。

 先生は、いつも以上に冷たい。

 それでも名前を呼ばれたとき……私は、ほんのすこしだけ、嬉しかった。

「……席に戻ってください」

「……」

 うなだれたまま、自分の席に戻る。

 手が汗でびっしょりと濡れていた。

 胸の奥が、吐きそうになるくらい痛みつけられる。

「ねぇ、今日の先生、莉乃に対してだけ……いつも以上に怖くない?」

 冷たくて静かで張り詰めた空気の中で、隣に座っている咲良が小さく呟く。

 その言葉に対して、私は返答をしなかった。

 ただ心の奥で、ひとりうずくまって心を閉ざす。


 先生はきっと、私に腹を立てている。

 ストーカーだと思われている。

 やり場のない感情の矛先は、自然と中野先生に向いていた。

 どうしてそんなに聴かれたくないのだろう。

 どうしてこんなにも冷たいのだろう。

 そんなに聴かれるのが嫌ならば、学校で弾かなければいいのに。

 それでも先生は旧校舎の音楽室で、ピアノを弾き続ける。


 その矛盾すら、気になって仕方がなかった。

 

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