第2章 聴こえない音

1. 親友の言葉


 中野先生の私に対するあたりは、やはり強いままだった。

 数学の授業はいつも通り冷たくて、厳しくて、淡々としていて。

 けれどその冷たさは、他の生徒と私では、どこか違っているように見える。

 たぶん、他の子には気づかれない程度の誤差。

 でも隣の席の咲良には、誤魔化しきれなかった。



 誰もいなかった旧校舎からの帰り道、たまたま昇降口で咲良と鉢合わせた。

 咲良は珍しく、図書室で勉強していたらしい。

 偶然の巡り合わせに感動して、思わずハイタッチをした。


 靴を履いて外に出ると、彼女は当然のように私の横に並ぶ。

 私が生徒会や部活で忙しいから、こうして咲良と並んで歩いて帰るのは久しぶりだった。

「ねぇ、莉乃」

「ん?」

「最近さ、中野先生と何かあった?」

「……え?」

 思わず立ち止まる。

 咲良はまっすぐ私の顔を見つめていた。

「な、なんで?」

 目を逸らすことができなくて、私はぎこちなく前髪を指でいじる。

 いつも通りの帰り道なのに、空気がすこしだけ変わったような気がした。

「だってさ、最近の先生、莉乃にだけあたりが強いよね。前からちょっと怖かったけど、今はなんか……莉乃に対してだけ、露骨っていうかさ。さすがにおかしくない?」

「……そうかな?」

「そうだよ。私、見てたもん」

 後ろを歩いていた同じ学校の生徒が、楽しそうに笑いながら私たちを抜いていく。

 その状況で私は、必死に頭を回転させていた。

 咲良にほんとうのことを話すか、話さないか。それを本気で考えていた。

 事情は知って欲しい。胸にある感情を吐き出したい。でも、なんとなく知られたくない。

 相反するふたつの感情がぶつかり、私は咄嗟に〝嘘〟を選んだ。

「……別に、先生とは何もないよ」

「ほんとに?」

「……ほんとに」

 ここは素直に信じてほしいのに、咲良のまっすぐな視線が、どこか苦しく感じた。

 友達に嘘をつくのは、思っていたよりも心が痛い。


 すこし歩いて、住宅街の角を曲がったところで、ふと私は立ち止まった。

 そして勇気を出して、息を吸い込む。

 やはり……嘘をつくのは心苦しかった。

「……ねぇ、咲良」

「ん?」

「ほんとうは、先生とは何かあったの。ただ……誰にも、言わない?」

 そう切り出すと、咲良は目を大きく見開いた。そして、驚いたような声を出す。

「……え、何それ。言うわけがないじゃん。てか何よ、改まって」

「……あのね」

 咲良は私にぴったりと体をくっつけて、私の制服の袖を軽く掴んだ。

 その距離が妙にくすぐったいのに、今はなんだか嬉しい。

 私だけに見せてくれる彼女の優しさが、胸に沁みる。

 この子には隠しごとをしたくないと、改めて思った。

「……実は、私ね。音楽室で何度か……中野先生のピアノを聴いていたんだ」

「え?中野先生、ピアノ弾けるの?」

「うん、すごく上手なの」

「……へぇ、そうなんだ。すごく意外」

 咲良が目を丸くする。

 その反応がちょっと面白くて、私はすこしだけ笑った。

 私と咲良はまたすこし歩き、通学路の途中にある公園へ入ってベンチに腰をかけた。

 沈みかけた夕陽が眩しい。

 公園の遊具を、優しくオレンジ色に染めていた。


「なんかね。中野先生のピアノが、ずっと気になるんだ」

「うん」

「……ピアノの音色は、すごく優しくて、温かくて、どこか甘さまで感じる。でも、話すとすごく冷たくて、先生のピアノを聴きたいって言っても、ひどく突き放されちゃう」

「うん」

「それでも……どうしても、気になっちゃうんだ。私……どうしても、中野先生のピアノを聴きたいの」

 想像以上に、言葉がぽろぽろと零れていった。

 この感情を誰かに聞いてほしかったのかもしれない。そんな第三者目線で自分のことを省みるくらい、自然に言葉が零れる。

 咲良は「んー」と唸って、視線を空へ向ける。

 流れる雲を目で追いながら、小さく口を開いた。

「莉乃。それ……恋じゃない?」

「……ん?」

 一瞬、咲良が何を言っているのかわからなかった。

 すこし頭を巡らせて考えたのち、思わず大きな声が出てしまう。

「え、恋!?」

 近くにいた鳩たちが、バサッと音を立てて飛び立っていく。

 咲良は変わらず冷静な表情をしていた。

「それ、莉乃さ。中野先生のことが好きじゃん?」

「ち、違う。絶対に違うよ!?」

 あまりにも驚きすぎて、反射的に否定する。

「でも、気になって仕方ないんでしょ?」

「そうだけど……」

「先生のピアノが好きで、先生のことを考えて、授業で当てられると、ちょっと嬉しくなっちゃったりして」

 心臓が飛び跳ねた。

 咲良の言葉が、まっすぐ心に突き刺さる。

 図星だった。

 だから余計に、否定できない自分が情けなくて悔しい。

「……それはまぁ、ちょっとだけ」

「ほら。それ、恋じゃん」

「ち……違うってば」

 私は力なく、もう一度否定する。

 でも、否定すればするほど、胸の奥が思い切り締め付けられていく。

「……」

 もうこれ以上は無理だと思って、私は立ち上がった。

 そしてそのまま、何も言わずに歩き出す。後ろから慌てた声が聞こえてきた。

「ちょ、莉乃ー!」

 咲良が背後から追いかけてくる。

 今の私は、絶対に顔が赤い。

 それを見られるのが、どうしようもなく恥ずかしかった。


 これは恋ではない。

 ただ、先生のピアノが気になるだけ。

 そう必死に自分に言い聞かせるたびに、なぜか心が痛くなるから悩ましい。


 でももし——これがほんとうに〝恋〟だとしたら、私は……どうしたらいいのだろう?

 ふと頭に浮かんだ疑問に、また心臓が飛び跳ねる。

 私は邪念を振り払うように首を横に振り、さらに早歩きで先に向かった。

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