第2章 聴こえない音
1. 親友の言葉
中野先生の私に対するあたりは、やはり強いままだった。
数学の授業はいつも通り冷たくて、厳しくて、淡々としていて。
けれどその冷たさは、他の生徒と私では、どこか違っているように見える。
たぶん、他の子には気づかれない程度の誤差。
でも隣の席の咲良には、誤魔化しきれなかった。
◇
誰もいなかった旧校舎からの帰り道、たまたま昇降口で咲良と鉢合わせた。
咲良は珍しく、図書室で勉強していたらしい。
偶然の巡り合わせに感動して、思わずハイタッチをした。
靴を履いて外に出ると、彼女は当然のように私の横に並ぶ。
私が生徒会や部活で忙しいから、こうして咲良と並んで歩いて帰るのは久しぶりだった。
「ねぇ、莉乃」
「ん?」
「最近さ、中野先生と何かあった?」
「……え?」
思わず立ち止まる。
咲良はまっすぐ私の顔を見つめていた。
「な、なんで?」
目を逸らすことができなくて、私はぎこちなく前髪を指でいじる。
いつも通りの帰り道なのに、空気がすこしだけ変わったような気がした。
「だってさ、最近の先生、莉乃にだけあたりが強いよね。前からちょっと怖かったけど、今はなんか……莉乃に対してだけ、露骨っていうかさ。さすがにおかしくない?」
「……そうかな?」
「そうだよ。私、見てたもん」
後ろを歩いていた同じ学校の生徒が、楽しそうに笑いながら私たちを抜いていく。
その状況で私は、必死に頭を回転させていた。
咲良にほんとうのことを話すか、話さないか。それを本気で考えていた。
事情は知って欲しい。胸にある感情を吐き出したい。でも、なんとなく知られたくない。
相反するふたつの感情がぶつかり、私は咄嗟に〝嘘〟を選んだ。
「……別に、先生とは何もないよ」
「ほんとに?」
「……ほんとに」
ここは素直に信じてほしいのに、咲良のまっすぐな視線が、どこか苦しく感じた。
友達に嘘をつくのは、思っていたよりも心が痛い。
すこし歩いて、住宅街の角を曲がったところで、ふと私は立ち止まった。
そして勇気を出して、息を吸い込む。
やはり……嘘をつくのは心苦しかった。
「……ねぇ、咲良」
「ん?」
「ほんとうは、先生とは何かあったの。ただ……誰にも、言わない?」
そう切り出すと、咲良は目を大きく見開いた。そして、驚いたような声を出す。
「……え、何それ。言うわけがないじゃん。てか何よ、改まって」
「……あのね」
咲良は私にぴったりと体をくっつけて、私の制服の袖を軽く掴んだ。
その距離が妙にくすぐったいのに、今はなんだか嬉しい。
私だけに見せてくれる彼女の優しさが、胸に沁みる。
この子には隠しごとをしたくないと、改めて思った。
「……実は、私ね。音楽室で何度か……中野先生のピアノを聴いていたんだ」
「え?中野先生、ピアノ弾けるの?」
「うん、すごく上手なの」
「……へぇ、そうなんだ。すごく意外」
咲良が目を丸くする。
その反応がちょっと面白くて、私はすこしだけ笑った。
私と咲良はまたすこし歩き、通学路の途中にある公園へ入ってベンチに腰をかけた。
沈みかけた夕陽が眩しい。
公園の遊具を、優しくオレンジ色に染めていた。
「なんかね。中野先生のピアノが、ずっと気になるんだ」
「うん」
「……ピアノの音色は、すごく優しくて、温かくて、どこか甘さまで感じる。でも、話すとすごく冷たくて、先生のピアノを聴きたいって言っても、ひどく突き放されちゃう」
「うん」
「それでも……どうしても、気になっちゃうんだ。私……どうしても、中野先生のピアノを聴きたいの」
想像以上に、言葉がぽろぽろと零れていった。
この感情を誰かに聞いてほしかったのかもしれない。そんな第三者目線で自分のことを省みるくらい、自然に言葉が零れる。
咲良は「んー」と唸って、視線を空へ向ける。
流れる雲を目で追いながら、小さく口を開いた。
「莉乃。それ……恋じゃない?」
「……ん?」
一瞬、咲良が何を言っているのかわからなかった。
すこし頭を巡らせて考えたのち、思わず大きな声が出てしまう。
「え、恋!?」
近くにいた鳩たちが、バサッと音を立てて飛び立っていく。
咲良は変わらず冷静な表情をしていた。
「それ、莉乃さ。中野先生のことが好きじゃん?」
「ち、違う。絶対に違うよ!?」
あまりにも驚きすぎて、反射的に否定する。
「でも、気になって仕方ないんでしょ?」
「そうだけど……」
「先生のピアノが好きで、先生のことを考えて、授業で当てられると、ちょっと嬉しくなっちゃったりして」
心臓が飛び跳ねた。
咲良の言葉が、まっすぐ心に突き刺さる。
図星だった。
だから余計に、否定できない自分が情けなくて悔しい。
「……それはまぁ、ちょっとだけ」
「ほら。それ、恋じゃん」
「ち……違うってば」
私は力なく、もう一度否定する。
でも、否定すればするほど、胸の奥が思い切り締め付けられていく。
「……」
もうこれ以上は無理だと思って、私は立ち上がった。
そしてそのまま、何も言わずに歩き出す。後ろから慌てた声が聞こえてきた。
「ちょ、莉乃ー!」
咲良が背後から追いかけてくる。
今の私は、絶対に顔が赤い。
それを見られるのが、どうしようもなく恥ずかしかった。
これは恋ではない。
ただ、先生のピアノが気になるだけ。
そう必死に自分に言い聞かせるたびに、なぜか心が痛くなるから悩ましい。
でももし——これがほんとうに〝恋〟だとしたら、私は……どうしたらいいのだろう?
ふと頭に浮かんだ疑問に、また心臓が飛び跳ねる。
私は邪念を振り払うように首を横に振り、さらに早歩きで先に向かった。
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