第16話:稲葉山城下、知略と筋肉の邂逅
美濃の稲葉山城下は、穏やかな夏の陽光に包まれていた。だが、その静けさとは裏腹に、今川軍の侵攻の噂は日増しに色濃くなっていた。城下のとある茶屋で、若き天才軍師、竹中半兵衛は、静かに茶を啜っていた。彼の瞳は常に冷静で、周囲の喧騒すらも、彼にとっては分析対象でしかなかった。
「今川義元か……桶狭間で信長を下したという、あの奇妙な男」
半兵衛の脳裏には、先ごろ届いた今川義元の奇妙な噂がよぎっていた。なんでも、戦場で急に上着を脱ぎ捨て、筋肉を誇示して敵兵を投降させたとか。荒唐無稽な話だが、今川軍の破竹の勢いを考えると、無視できるものではない。半兵衛の「理屈で割り切れないもの」に対する強い違和感が、彼の胸に小さく、しかし確かな波紋を呼んでいた。
その時だった。
茶屋の入り口が、陽光と共に開け放たれた。そこに立っていたのは、噂に聞く今川義元その人だった。彼の周りには、屈強な肉体を誇る数名の武士が控え、彼らの軽装の鎧から覗く筋肉は、確かに周囲の侍たちとは一線を画していた。彼らの身体から放たれる「健全な汗の匂い」と、「漲る活力」は、半兵衛の鼻腔をくすぐり、彼の「合理的な思考」を刺激した。
「ほう……竹中半兵衛殿とお見受けする」
義元は、半兵衛の前に立つと、優雅な仕草で懐に手をかけた。その動きに、半兵衛は冷静に彼の次の行動を予測しようとする。しかし、義元の次の動作は、半兵衛の予測を完全に裏切った。
スルリと、義元の豪華な着物が肩から滑り落ちた。
ドンッ!
陽光に照らされ、隆起した大胸筋と腹筋が、茶屋の薄暗い中にまばゆいばかりの輝きを放った。その肉体から放たれる圧倒的な「圧」に、茶屋の客たちは皆、息を呑み、そして一斉に後ずさった。半兵衛の眉が、わずかに、本当にわずかに動いた。彼の冷静な表情に、初めての「違和感」が深く刻まれた瞬間だった。それは、彼の「論理」という価値観が、目の前の「異形の存在」によって揺さぶられる感覚だった。
「竹中半兵衛よ……お前の才は、このような場所で腐らせてはならぬ」
義元の声は、茶屋の空間に響き渡った。彼の言葉は、半兵衛の「己の才を活かせない現状への鬱屈」に、直接語りかけているかのようだった。
「おれにつけば──」
義元は、両腕を大きく広げ、まるで半兵衛を抱きしめるかのようにポーズを取った。その筋肉の波が、半兵衛の「知略」という価値観に、全く異なる角度から「強さ」を提示する。
半兵衛は、その常識外れの行動を冷静に観察しようと努めたが、目の前の「筋肉」が放つ異常なまでの説得力に、内心の動揺を隠せなかった。彼の脳内は、「この男は狂っているのか?」「しかし、この肉体は、確かに理屈を超えた何かを表現している……」という、矛盾した思考で大きく膨らむ。
「……鍛える、とは……体を、ですか?」
半兵衛は、普段の冷静な口調を保ちながら、わずかに声が震えているのを自覚した。彼の瞳は、義元の隆起した筋肉から離れなかった。
義元は、満面の笑みで力強くポージングした。血管の浮き出た上腕が、茶屋の照明に輝く。
「体も、心も、そして天下もだ!!」
義元の声は、半兵衛の心に直接響いた。
「見よ、この上腕! この腹筋! お前の知略を、この筋肉が支えるのだ!!」
その言葉を聞いた瞬間、半兵衛の目が、わずかに、しかし確かに輝いた。彼の心の中で、「論理」と「肉体」という、これまで相容れなかったはずの二つの概念が、奇妙な形で結びついた。義元は、半兵衛の「天下を平定したい」という根源的な価値観に対し、「筋肉」という全く新しい「手段」を提示したのだ。
「……なるほど、理屈は理解できませんが……」
半兵衛は、ゆっくりと茶碗を置き、立ち上がった。彼の顔には、微かな笑みが浮かんでいた。それは、彼が心底から面白いものを見つけた時の、滅多に見せない表情だった。
「……その筋肉と理屈の無茶ぶり、嫌いではありません」
半兵衛は、義元の前で深く頭を下げた。
「殿の元で、私の才を振るわせていただきましょう。そして……」
半兵衛は顔を上げ、義元の筋肉を見つめながら、静かに、しかし確かな目で言った。
「……鍛えてください」
義元は、満足げに頷いた。
「ふははは! 見事だ、半兵衛! これで今川の知恵の筋肉は、さらに強靭となる!」
義元の高らかな笑い声が、茶屋に響き渡った。美濃の天才軍師、竹中半兵衛が、今、「筋肉覇王」今川義元の前にひざまずいたのだ。それは、「知略」と「筋肉」が融合し、戦国の常識を塗り替える新たな時代の幕開けを告げる、静かな、しかし強烈な一幕だった。
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