第14話:武田信玄、筋肉と経済に屈す
甲斐の躑躅ヶ崎館、武田信玄の居室には、連日重苦しい空気が淀んでいた。
「申し上げます! 駿河からの塩の荷が、また減っておりまする!」
焦燥に駆られた家臣の報告に、信玄は苦々しい顔で目を閉じた。海を持たぬ武田にとって、今川が握る塩は文字通りの生命線。その供給が、桶狭間での今川義元の大勝以来、ジワリジワリと絞られている。
(今川義元……あの奇妙な男め。武力だけでなく、こんな陰湿な手を使うとは……!)
信玄の脳裏には、先ごろ今川から届いた書状と、それに添えられた一枚の図絵がよぎる。そこには、筋肉隆々の男たちが、海岸で塩田を耕し、汗を流す姿が描かれていた。そして、書状には「筋肉は裏切らぬ。故に、塩もまた、我ら今川の筋肉にのみ忠誠を誓う」と、意味不明な文言が記されていた。信玄は、義元の常識外れの行動と、その言葉の裏にある「見えざる経済力」に強い違和感と、底知れぬ危機感を激しく揺さぶられていた。
「殿! このままでは兵の疲労が回復せず、民からも不満の声が! 何とかせねば!」
主戦派の家臣が、苦悶の表情で訴える。彼らの胸には、「屈辱だ!」という微細な苛立ちが膨らんでいた。あの今川に、経済で首を絞められるなど、武田の誇りが許さない。
信玄は、大きく息を吐いた。彼の思考は、常に武田家の存続を最優先する。
(戦えば、今川の兵站と、あの「筋肉」に鍛えられた兵には勝てぬ。信長が下ったのを見れば明らか。ならば……)
信玄は、意を決したように目を開き、重臣たちに告げた。
「今川との交渉に応じる。向こうの言い分を聞け」
家臣たちは、信じられないという顔で信玄を見た。彼らの心には、「武田の誇り」と「現実的な存続」という「感情の分裂」が激しく起こっていた。
数日後、今川から使者が訪れた。その中心には、今川義元本人が控えていた。信玄は、その異様な筋肉を持つ男が、まさか自ら交渉の場に現れるとは思わず、思わず息を呑む。
「武田信玄殿。お呼び立てして申し訳ない」
義元は、優雅に、しかし堂々と信玄の前に座ると、やおらその豪華な装束に手をかけた。信玄の脳裏に、あの「噂」がよぎる。
スルリと、着物が肩から滑り落ち、陽光を浴びた大胸筋が、眩いばかりに輝いた。その肉体からは、圧倒的な「圧」が放たれ、信玄の心臓が不規則に脈打つ。
「さて、本題だが。武田殿。塩の安定供給を望むか?」
義元の問いに、信玄は必死に冷静を装った。「……当然だ。塩なくして、人は生きられぬ」
「フッ……その通り。そして、筋肉もまた、塩なくしては育たない」
義元は、そう言い放つと、自らの上腕をピクリと動かした。
「貴様には、二つの道がある。一つは、このまま塩を断たれ、兵も民も疲弊し、やがては滅びる道。もう一つは、我ら今川の傘下に入り、塩の安定供給を受け、共に『筋肉泰平の世』を築く道だ」
義元は、さらに続けた。「そして、武田殿。貴様の父、信虎殿の返還も、我らが保証しよう」
信玄の目が、大きく見開かれた。それは、武田家にとって、長年の懸案だった。
「どうだ、武田殿。おれにつけば──鍛えてやろう! 筋肉も、心も、そして天下をもだ。貴様の才を、この筋肉が支えるのだ!」
義元の言葉は、信玄の「武田家の存続」という価値観に、「筋肉と合理」という新たな手段を突きつけた。信玄は、悔しさ、屈辱、そして抗いがたい「新たな強さ」への誘惑に、拳を握り締め、全身を震わせた。彼の心では、「武田の誇り」と「家族の安寧」という感情が激しく分裂していた。
やがて、信玄は深く、深く息を吐き出すと、ゆっくりと、しかし確実に義元の前でひざまずいた。
「……お見事。お供いたしまする、義元公!」
信玄の口から出たその言葉は、武田家が、武力ではなく、「経済と筋肉」によって屈服した瞬間を告げていた。戦国の雄、武田信玄が、今、「筋肉覇王」今川義元の前に、その頭を垂れたのだ。
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