前のエピソード――第9話：遠江の治水、筋肉と土木の咆哮

桶狭間での勝利、そして尾張から遠江にかけての統治改革が進む中、今川家臣団の中には、義元の「筋肉理論」に対する戸惑いが薄れ、代わりに確かな変化が生まれつつあった。それは、殿の言いつけ通りに始めた常識外れの鍛錬が、実際に彼らの肉体を強化し、日々の生活に活力を与えているという、「身体性」を伴う実感」だった。

清洲城、評定の間。日の光が差し込む畳の上で、今日も義元は自らの隆起した大胸筋を誇示するように、堂々と腕組みをしていた。その圧倒的な存在感に、家臣たちはもはや戸惑うことなく、むしろ「殿の筋肉は今日も健在なり」とばかりに、畏敬の念をもって見上げていた。評定の空気は、以前のような重苦しさではなく、どこか清々しい汗の匂いを帯びている。

「泰朝。近頃、兵たちの鍛錬の進捗はいかがか？」

義元の問いに、朝比奈泰朝は自信に満ちた表情で答えた。その声には、以前の覇気のなさなど微塵もない。彼の頬も、以前より引き締まっているように見える。

「ははっ！殿の御教えの通り、兵たちの肉体は日に日に逞しくなっております！かつては疲労困憊であった者も、今や朝駆けも苦にせず、声にも張りが出ました！特に『地面に手をついて身を押し上げる鍛錬』と『膝を曲げて腰を落とす鍛錬』は、もはや兵たちの日常の一部となっております！」

泰朝自身も、義元の命じる鍛錬を忠実にこなすことで、その腹回りが引き締まり、顔色もすこぶる良くなっていた。彼の胸には、「殿の仰せられた筋肉の理は、まこと真なり」という揺るぎない確信が熱く膨らんでいた。それは、「違和感」から「納得」へと至る、彼自身の感情の大きな波でもあった。

「ほう。それは喜ばしい。では、家臣らの様子は？」

今川の譜代家臣たちが、次々と口を開き、自領での「筋肉改革」の成果を報告し始めた。その声には、どの者も自信と誇りが満ちている。

「殿！わが領の農民どもも、あの『膝を曲げて腰を落とす鍛錬』のおかげで、畑仕事の効率が格段に上がりました！腰を痛める者も減り、皆、笑顔で作業に勤しんでおります！」

「漁師たちも『地面に手をついて身を押し上げる鍛錬』のおかげで、綱を引く力が強くなり、大漁続きでございます！船の漕ぎ手も息切れすることなく、遠くまで漁に出られるようになりました！」

「わが領の商人たちも、殿の命じる鍛錬に励んだところ、身体が軽くなり、より精力的に商売に励めるようになったと申しております！今では、早朝には鍛錬に汗を流してから店に出るのが当たり前となっておりまする！」

彼らの報告は、どれもこれも「筋肉がもたらす実利」で満ちていた。義元の「筋肉理論」は、もはや武士だけでなく、農民、漁師、そして商人といった民衆の生活にまで浸透し、彼らの生産性を飛躍的に向上させていたのだ。

義元は、満足げに頷いた。彼の瞳には、「民の豊かさこそが、真の国力となる」という価値観が輝いている。それは、転生者としての彼が目指す、究極の理想の形だった。

「ふははは！見事だ、皆の者！貴様らの忠誠と、鍛え上げられた肉体こそが、今川の真の強みだ！」

義元の高らかな声が、評定の間に響き渡る。家臣たちの間には、「殿は常識外れだが、この方についていけば、我らの未来は拓ける」という、揺るぎない信頼と、得も言われぬ絆が生まれつつあった。彼らの心の中で、殿への「困惑」が「畏敬」へと「感情を分裂」させ、「殿の筋肉こそが、この世の真理」という「新たな価値観」が確立されたのだ。

それは、単なる主従の関係を超え、「筋肉」という共通の信念によって結びついた、新たな「家族」のような結束だった。今川家は、静かに、しかし確実に、「筋肉の絆」で固く結ばれ、来るべき天下統一の道を突き進む、強固な基盤を築き上げていた。