第9話:遠江の治水、筋肉と土木の咆哮

桶狭間の勝利は今川家に圧倒的な勢いをもたらし、尾張から駿河にかけての領地は、義元の「筋肉理論」と合理的采配によって急速に安定しつつあった。特に駿河では、「筋肉を鍛えた商人は富を生む」という義元の奇妙な教えが、商人たちの間で静かなブームとなり、その成果は徐々に現れ始めていた。


だが、義元の目は、まだ手つかずの領地へと向けられていた。遠江の地。そこはたびたび水害に見舞われ、民を苦しめていた場所だった。


評定の場。義元は、自らの隆起した胸板を誇示するように、堂々と腕組みをしていた。その圧倒的な存在感に、家臣たちは今日も息を呑む。


「さて、本日は遠江の治水についてだが」


義元の声が響くと、評定の間は静まり返った。


「これより、遠江全域で大規模な治水事業を断行する! 特に、この天竜川流域には、これまでにない高さと強度を持つ堤防を築く!」


義元の言葉に、治水奉行が蒼白な顔で進み出た。


「殿! その規模は、国が傾くほどの莫大な費用と人足を要しまする! とてつもない難工事にございます!」


治水奉行の言葉は、家臣たちの困惑を代弁していた。彼らの胸には、「治水まで筋肉で語るのか」という強い違和感が膨らんでいた。


義元は、ゆっくりと治水奉行に視線を向けた。その瞳の奥には、彼が見たことのない、未来を見据えるような、そして何かを決定した者の、冷徹な光が宿っていた。


「愚か者め。費用だと? 難工事だと? 貴様らは知らぬのか。筋肉は、土木工事の効率を飛躍的に高める!」


義元は、そう言い放つと、席を立ち、ゆっくりと治水奉行の前に歩み寄った。その足音は、評定の間に重く響く。義元は、治水奉行の震える肩に手を置いた。治水奉行は、義元の手が触れた部分から、岩のような筋肉の「圧」が伝わってくるのを感じ、思わず息を詰めた。


「民の命と生活は、国の根幹を支える。そして、その根幹を支えるのは、汗を流す筋肉だ。よって、治水事業に携わる者、全員に『特別な鍛錬』を課す!」


義元は、自らの上腕二頭筋をピクリと動かした。その筋肉の躍動は、治水奉行の心臓を直接掴まれたかのような「身体性」を伴う恐怖を与えた。


「毎日、岩を抱えての膝落とし運動を百度! 泥濘(ぬかるみ)を駆け上がる坂道ダッシュを十本! これを怠る者は、この俺が直々に肉体指導してやる!」


もはや治水工事とは名ばかりの筋肉地獄に、治水奉行の顔から血の気が引いた。だが、桶狭間で見た「筋肉の奇跡」が、治水奉行の脳裏に焼き付いている。義元の言葉には、抗いがたい「説得力」があった。


(殿の仰ることは意味不明だ……しかし、殿は、結果を出す……)


治水奉行の胸では、「困惑」と「殿の言う通りにすれば、本当に治水事業が成功するかもしれない」という「期待」が激しくぶつかり合っていた。やがて、治水奉行は深呼吸を一つすると、その葛藤を押し殺し、決意を固めた。


「は……ははっ! 御意にございまする! この老体、殿の御期待に沿えるよう、身命を賭して、治水事業を推進いたしまする!」


義元は、満足げに頷いた。


「ふははは! 見事だ! 貴様も、いずれは『土木筋肉の達人』となろう!」


義元の高笑いが、評定の間に響き渡る。


その日から、遠江の地では、奇妙な光景が日常となった。農民も足軽も、みな半裸で汗を流し、岩を抱えての膝落とし運動に勤しむ。泥濘にまみれ、顔を歪めながらも、彼らの肉体は日に日に逞しくなっていった。そして、その筋肉が、天竜川の激流を堰き止める堤防を、着実に、しかし驚くべき速さで築き上げていく。遠江の治水事業は、静かに、しかし確実に「筋肉の奔流」に乗り始めていた。

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