第2話 それぞれの恋
帝都に夜の帳が降りる。
かつて恐怖と絶望に支配されていたこの都も、今では静寂を取り戻し、まるで何事もなかったかのように、穏やかな眠りの時を迎えていた。
石畳を淡く照らす街灯。その光が、まるで時間の針を緩やかに進めるかのように揺らめいている。
祭りの余韻がまだ空気の中に漂い、風が残り香を撫でて通り過ぎていく。
王都の片隅、静かな神殿の一室。
聖女セレスティアは、一人、月明かりに照らされた窓辺で跪いていた。
手を組み、静かに目を閉じ、唇を閉ざす。
祈りの姿。だがその胸の内は、神に捧げる祈りとは別の想いで満ちていた。
銀糸のような長髪が、月光を受けてやわらかく輝いている。その姿はまるで神話の一節のようだった。
けれど、その美しさの奥にあるもの――それは、光ではなく闇。
深く、熱く、甘美な欲望。
──思い返す。
自分が初めて彼に触れられたあの瞬間を。
心を、魂を、命の意味すらも奪われた、あの夜を。
*
それは、凍てつくような冬の夜だった。
魔王軍との攻防が激しさを増していたある日、セレスティアは最前線に呼び出された。
癒しの奇跡を求める負傷者たち。彼女はただ、その祈りに応えようとした。
だが、突如現れた魔物の群れに、護衛たちは次々と倒れ、セレスティア自身も剣を腹に受け、血に染まりながら倒れた。
意識が薄れていく中、彼女の体は何者かの腕に抱き上げられた。
冷たい風が頬を撫で、遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえる。だが、耳に残ったのはたった一つの声だけだった。
「死ぬな……。お前がいなきゃ、皆が死ぬ」
低く、掠れた声。けれど、どこまでも力強く、命を繋ぐ熱を孕んでいた。
──ヤマト。
何もかもが霞んでいく中で、彼だけは輪郭を持っていた。
血まみれの体を抱えて、必死に走るその背中。荒い息づかい。傷を負ってなお、彼は彼女を守り続けていた。
「どうして……ここまで……」
「お前が必要だからだ」
その瞬間だった。
それまで彼に抱いていた敬意や感謝のすべてが、一瞬で恋に変わった。
これは尊敬ではない。憧れでも、信仰でもない。
ひとりの女として、彼を欲してしまったのだ。
その夜以来、セレスティアの祈りは、神ではなくヤマトに捧げられるものとなった。
今も胸の奥に、あのときの声が残っている。
指先に、彼に支えられたときの熱が残っている。
それはもう祈りでは消せないものとなっていた。
(……あの人は、わたしのもの)
微笑は柔らかく、けれどその奥底には、誰にも触れられたくない激情が息づいていた。
*
そのころ、王城の訓練場。
木人形を相手に剣を振り続ける女がいた。獣人の血を引く戦士――リーナ。
額に浮かんだ汗を拭いもせず、荒く呼吸をしながら彼女は剣を振り下ろす。
「……チッ」
木人形が吹き飛ぶ。だが、苛立ちは消えなかった。
刃を振るうたびに、心の中のざらつきが増していく。
(なんでだ……)
なぜ、セレスティアが彼の隣で微笑んでいたとき、自分の胸があんなにも軋んだのか。
なぜ、ミレイユがヤマトの名を口にした瞬間、喉がひどく渇いたのか。
──答えは、知っている。
あの戦場の夜。
全滅しかけた部隊の中で、誰よりも早く撤退しようとした兵士たちを横目に、彼だけが戻ってきた。
「リーナ! まだ生きてるか!」
自分の名を叫ぶ声。
どれほど懸命に自分を抱え、剣を振るって守ってくれたか。
「お前を一人で死なせるわけにはいかねぇだろ……っ!」
背中に負ぶわれて逃げた道中、自分は……泣いた。
弱音を吐いたわけじゃない。
ただ、それまで信じてきた『孤高の強さ』が砕かれたのだ。
代わりに、心に棲みついたのが、ヤマトという存在だった。
(……なんであたし、あいつにだけ……)
それは憧れなんかじゃない。
あれはもう、どうしようもない執着。
噛みついてでも引き寄せていたい、本能のような渇望。
「絶対に……誰にも、やらねぇ……」
リーナの瞳が、闇の中で猛獣のように光った。
*
深夜。静寂の図書塔。
ランプの灯火の下、ひとり黙々とページをめくる黒髪の魔導士――ミレイユ。
夜の帳が降りるたび、彼女はここを訪れ、ヤマトと過ごした記憶を反芻するのが習慣になっていた。
(……あの人の言葉、まだ、覚えてる)
「君の魔法は、破壊のためじゃない。誰かを救うためにある」
誰もが恐れた。
彼女の魔力の奔流と、理性を越えて暴走する炎。
同僚の魔術師たちは距離を置き、上層部は彼女を“管理すべき危険物”として扱った。
だが、ヤマトだけは違った。
逃げもせず、恐れもせず、正面から彼女に言葉をくれた。
その言葉が、呪いのように張りついていた心を、少しだけ溶かしてくれた。
(あの人だけが、私を見てくれた)
だから、壊れてしまったのだ。
それまで守ってきた理性の檻が。
孤独を覆い隠す仮面が。
引き出しの中には、彼の使った布片、矢じり、香りのついた包帯。
──愛とは何かを、彼女は知ってしまった。
(誰かに奪われるくらいなら、壊してでも)
手の中にある日記帳。そこには、彼がかけてくれたすべての言葉が記されていた。
一つ残らず。まるで、神の啓示のように。
*
そして夜が明ける。
朝焼けが、王都の空を真紅に染めていく。
その光の中、ヤマトの部屋の前には三つの影が立っていた。
リーナ。
セレスティア。
ミレイユ。
誰もが無言。だが、その目は、互いを牽制するように鋭く、そして哀しいほど真剣だった。
(どいて)
(今度こそ、わたしが)
(あの人を、誰にも渡さない)
交錯する視線。
重なりそうで重ならない手。
そして、そのうちの一人が、そっと扉のノブに手をかけた――。
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