第2話 それぞれの恋

 帝都に夜の帳が降りる。

 かつて恐怖と絶望に支配されていたこの都も、今では静寂を取り戻し、まるで何事もなかったかのように、穏やかな眠りの時を迎えていた。


 石畳を淡く照らす街灯。その光が、まるで時間の針を緩やかに進めるかのように揺らめいている。

 祭りの余韻がまだ空気の中に漂い、風が残り香を撫でて通り過ぎていく。


 王都の片隅、静かな神殿の一室。


 聖女セレスティアは、一人、月明かりに照らされた窓辺で跪いていた。

 手を組み、静かに目を閉じ、唇を閉ざす。

 祈りの姿。だがその胸の内は、神に捧げる祈りとは別の想いで満ちていた。


 銀糸のような長髪が、月光を受けてやわらかく輝いている。その姿はまるで神話の一節のようだった。

 けれど、その美しさの奥にあるもの――それは、光ではなく闇。

 深く、熱く、甘美な欲望。


 ──思い返す。


 自分が初めて彼に触れられたあの瞬間を。

 心を、魂を、命の意味すらも奪われた、あの夜を。


 



 それは、凍てつくような冬の夜だった。


 魔王軍との攻防が激しさを増していたある日、セレスティアは最前線に呼び出された。

 癒しの奇跡を求める負傷者たち。彼女はただ、その祈りに応えようとした。


 だが、突如現れた魔物の群れに、護衛たちは次々と倒れ、セレスティア自身も剣を腹に受け、血に染まりながら倒れた。


 意識が薄れていく中、彼女の体は何者かの腕に抱き上げられた。

 冷たい風が頬を撫で、遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえる。だが、耳に残ったのはたった一つの声だけだった。


「死ぬな……。お前がいなきゃ、皆が死ぬ」


 低く、掠れた声。けれど、どこまでも力強く、命を繋ぐ熱を孕んでいた。


 ──ヤマト。


 何もかもが霞んでいく中で、彼だけは輪郭を持っていた。

 血まみれの体を抱えて、必死に走るその背中。荒い息づかい。傷を負ってなお、彼は彼女を守り続けていた。


 「どうして……ここまで……」


 「お前が必要だからだ」


 その瞬間だった。

 それまで彼に抱いていた敬意や感謝のすべてが、一瞬で恋に変わった。


 これは尊敬ではない。憧れでも、信仰でもない。

 ひとりの女として、彼を欲してしまったのだ。


 その夜以来、セレスティアの祈りは、神ではなくヤマトに捧げられるものとなった。


 今も胸の奥に、あのときの声が残っている。

 指先に、彼に支えられたときの熱が残っている。

 それはもう祈りでは消せないものとなっていた。


 (……あの人は、わたしのもの)


 微笑は柔らかく、けれどその奥底には、誰にも触れられたくない激情が息づいていた。


 



 そのころ、王城の訓練場。


 木人形を相手に剣を振り続ける女がいた。獣人の血を引く戦士――リーナ。


 額に浮かんだ汗を拭いもせず、荒く呼吸をしながら彼女は剣を振り下ろす。


 「……チッ」


 木人形が吹き飛ぶ。だが、苛立ちは消えなかった。

 刃を振るうたびに、心の中のざらつきが増していく。


 (なんでだ……)


 なぜ、セレスティアが彼の隣で微笑んでいたとき、自分の胸があんなにも軋んだのか。

 なぜ、ミレイユがヤマトの名を口にした瞬間、喉がひどく渇いたのか。


 ──答えは、知っている。


 あの戦場の夜。

 全滅しかけた部隊の中で、誰よりも早く撤退しようとした兵士たちを横目に、彼だけが戻ってきた。


 「リーナ! まだ生きてるか!」


 自分の名を叫ぶ声。

 どれほど懸命に自分を抱え、剣を振るって守ってくれたか。


 「お前を一人で死なせるわけにはいかねぇだろ……っ!」


 背中に負ぶわれて逃げた道中、自分は……泣いた。


 弱音を吐いたわけじゃない。

 ただ、それまで信じてきた『孤高の強さ』が砕かれたのだ。


 代わりに、心に棲みついたのが、ヤマトという存在だった。


 (……なんであたし、あいつにだけ……)


 それは憧れなんかじゃない。

 あれはもう、どうしようもない執着。

 噛みついてでも引き寄せていたい、本能のような渇望。


 「絶対に……誰にも、やらねぇ……」


 リーナの瞳が、闇の中で猛獣のように光った。


 



 深夜。静寂の図書塔。


 ランプの灯火の下、ひとり黙々とページをめくる黒髪の魔導士――ミレイユ。


 夜の帳が降りるたび、彼女はここを訪れ、ヤマトと過ごした記憶を反芻するのが習慣になっていた。


 (……あの人の言葉、まだ、覚えてる)


 「君の魔法は、破壊のためじゃない。誰かを救うためにある」


 誰もが恐れた。

 彼女の魔力の奔流と、理性を越えて暴走する炎。

 同僚の魔術師たちは距離を置き、上層部は彼女を“管理すべき危険物”として扱った。


 だが、ヤマトだけは違った。

 逃げもせず、恐れもせず、正面から彼女に言葉をくれた。


 その言葉が、呪いのように張りついていた心を、少しだけ溶かしてくれた。


 (あの人だけが、私を見てくれた)


 だから、壊れてしまったのだ。

 それまで守ってきた理性の檻が。

 孤独を覆い隠す仮面が。


 引き出しの中には、彼の使った布片、矢じり、香りのついた包帯。

 ──愛とは何かを、彼女は知ってしまった。


 (誰かに奪われるくらいなら、壊してでも)


 手の中にある日記帳。そこには、彼がかけてくれたすべての言葉が記されていた。


 一つ残らず。まるで、神の啓示のように。


 



 そして夜が明ける。


 朝焼けが、王都の空を真紅に染めていく。


 その光の中、ヤマトの部屋の前には三つの影が立っていた。


 リーナ。

 セレスティア。

 ミレイユ。


 誰もが無言。だが、その目は、互いを牽制するように鋭く、そして哀しいほど真剣だった。


 (どいて)

 (今度こそ、わたしが)

 (あの人を、誰にも渡さない)


 交錯する視線。

 重なりそうで重ならない手。

 そして、そのうちの一人が、そっと扉のノブに手をかけた――。


 

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