第3話 告白と拒絶
朝靄が王都の街路を覆っていた。
昨夜の祝宴の熱気がまだ空気に残っているというのに、人々の気配はまばらだ。
王宮の離れ――ヤマトの部屋の窓辺にも、その淡い白が流れ込み、剣の鍔に柔らかな光を落としていた。
ヤマトは鎧を脱ぎ、肩を回しながら深く息を吐いた。
「……肩、まだ重いな」
指を握り、開き、また握る。
魔王との戦いが終わってまだ数日。体の疲労は癒えつつある。
――だが、心は違う。
あの戦場を駆け抜けた日々の緊張が、いまだ血肉に残っている。
剣を置き、ようやく安らぎを得たはずのこの場所で、なぜか胸の奥は落ち着かない。
「……帰る、か」
ぽつりと零れた声は、誰に届くでもなく宙に溶けた。
王都に残り、顧問として仕えるか。それとも、何もかも捨て、辺境で静かに暮らすか。
答えは出ない。出せるわけがない。
異世界に来て、すべてを懸けて手にした平和だというのに、奇妙な虚しさがヤマトの胸を締めつけていた。
──コン、コン。
扉を叩く控えめな音。
「ヤマト様。お入りして、よろしいでしょうか?」
鈴を転がしたような声。
その響きに、ヤマトの背筋が無意識に伸びる。
「……セレスティアか。どうぞ」
扉が静かに開く。
銀糸のような髪を揺らし、聖女が現れた。
手には白磁のポットとカップ。香り立つハーブの匂いが、ゆるやかに部屋を満たしていく。
「朝のお務めのあとで、お茶を淹れてまいりました。……お口に合えば、よいのですが」
膝をつき、祈りにも似た仕草でカップを差し出す。
その微笑みは柔らかい。――だが、その瞳に宿る熱は、清廉さには似ても似つかない。
「ありがとう、助かるよ」
受け取ったヤマトは、どこか視線を逸らした。
なぜだろう、落ち着かない。
昨夜の祝宴のときもそうだった。
セレスティアの視線が、あまりにも重かった。
かつて見た聖女の微笑みは、万人に等しく向けられていたはずだ。
――なのに今は、ただひとり、自分だけを縫いとめる糸のように絡みついてくる。
「……ヤマト様」
ふいに、彼女の唇が震えた。
「神の声が、聞こえました」
「神の……声?」
「ええ。こう仰ったのです――“お前は、勇者と共にあれ”。
ヤマト様、あなたは、わたしと共に歩むべきだと」
その目は、信仰の光に似ていた。
だが、違う。
信仰はもっと澄んでいる。――これは、淀んだ底で燃える炎だ。
「……セレスティア」
ヤマトは言葉を探した。
だが、先に彼女が動く。
カップを置き、静かに立ち上がり――その両手を、彼の頬に添えた。
「わたし、あの夜からずっと……」
声が震えていた。
「あなたを、神よりも尊いと思ってしまった」
吐息が頬に触れるほど、近い。
その瞳は、もう聖女のものではなかった。
――あの夜。
血と炎の戦場で、彼が自分を抱えて逃げたとき、胸に芽生えた熱。
その熱は、もう消せない。
燃え尽きるまで、焼き尽くすまで、終わらない。
(この人は、わたしのもの。そうじゃなきゃ、神なんて意味がない)
だが、ヤマトはそっと彼女の手を外した。
「……すまない、セレスティア」
「なぜ、謝るのですか?」
「俺は……誰かのものになるつもりは、ない」
静かな拒絶。
――だが、それは彼女には届かない。
「……そう、ですか」
微笑みは崩れなかった。
ただ――その奥に、氷のような静けさが宿った。
「ええ、いいのです。あなたが拒むなら……」
一瞬、唇がかすかに震える。
「奪うまで、ですから」
その囁きは、祈りではなかった。
それは誓いだった。
決して、破られることのない誓約。
--
――廊下の影で、そのやり取りを見ていた者がいた。
黒衣の魔導士、ミレイユ。
柱に背を預け、冷たい瞳で二人を見下ろしていた。
「やっぱり、告げたのね」
指先で髪を弄びながら、呟く。
その顔に、焦りはない。
むしろ、予定通りとでも言いたげな冷笑。
懐から、小さなノートを取り出し、さらさらと何かを書き記す。
『一日早い。セレスティア、動くのが』
『ヤマト、まだ拒絶モード。利用できる』
『――殺し合い、近い』
ページの隅に、血のような赤で小さなハートを描く。
唇が、ゆるやかに歪んだ。
「ふふ……楽しみ」
その声は、炎のように揺れた。
(壊れればいい。全部。あの人の隣に立つのは、最後に残ったこの私だけでいい)
--
「――おい、聖女」
低い声が背後から飛ぶ。
セレスティアが扉を閉めて廊下に出た瞬間、そこに立っていたのは、獣人の女戦士リーナだった。
腕を組み、眉を吊り上げ、その瞳は獣そのもの。
「いい加減にしろよ」
「……何のことかしら?」
「とぼけんな。ヤマトに色目使ってんの、全部見えてんだよ」
セレスティアの微笑は崩れない。
だが、その目は氷のように冷えていた。
「色目? 違いますわ。わたしは、彼を導こうとしているだけ」
「導く? 笑わせんな。あたしはな、見てきたんだよ。戦場で血まみれになりながら、ヤマトがどれだけ――」
「それ以上、言わないで」
声が、刃のように鋭く落ちる。
「彼のことを語る資格があるのは、わたしだけ」
「……あ?」
二人の間に、殺気が走った。
空気が凍り、血の匂いすら立ちのぼるかのような緊張。
(殺せる。今ここで――でも、まだ)
セレスティアは笑う。
「あなたにできることは、もうないわ。全部終わったのだから」
--
――窓辺で、その光景を俯瞰していたのはミレイユだ。
笑みはない。ただ、静かに呟く。
「滑稽ね。二人とも……もう、戻れない」
頬をなぞる指先が、かすかに震えた。
「でも、止める気なんて、ない」
そして、唇がかすかに吊り上がる。
「全部、壊れればいい。あの人と、二人きりになるまで」
窓の外、朝焼けが血のような赤を放っていた。
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