第2話 言の葉は、泡のように
じりじりとアスファルトを焦がす太陽が、ようやく西の空へと傾き始めた八月の初め。夏休みという言葉の響きとは裏腹に、俺の毎日は予備校の冷房が効きすぎた教室と、コンビニのアルバイト先を往復するだけの、色のない線上をなぞる作業に過ぎなかった。受験という現実が、分厚いコンクリートの壁のように目の前にそびえ立っている。
そんな単調な日々の中で、スマートフォンの画面に浮かぶ『広瀬夏希』の四文字だけが、唯一、俺の世界に波紋を立てる小石だった。
『今日の講義、難しかったね』
『バイトお疲れ様!』
メッセージはいつも明るく、当たり障りがない。けれど、その裏側で、彼女が何かを言い出せずにいることは、画面越しにでも痛いほど伝わってきた。あの放課後の教室で、彼女が言いかけた言葉。それが喉の奥に刺さった小骨のように、ずっと俺をちくちくと苛んでいた。
予備校の授業が終わり、ひぐらしの鳴き声が支配する帰り道を歩いていると、前方の公園のブランコに、見慣れた人影を見つけた。夕焼けに溶けそうな、儚げなシルエット。俺は無意識に歩みを速め、彼女の名前を呼んだ。
「夏希」
振り返った彼女は、少し驚いたように目を見開いた後、ふわりと微笑んだ。「春樹、お疲れ様」。俺は、錆びて鈍い音を立てる隣のブランコに、ぎこちなく腰を下ろした。ぎい、とブランコが揺れる音が、二人の間の沈黙を埋めていく。
「あのさ」
先に口を開いたのは、夏希だった。その声は、ひぐらしの声に負けてしまいそうなほど、か細い。
「この前のこと、覚えてる? ……やっぱり、春樹にだけは、伝えたいことがあって」
来た。俺は息を飲み、心臓が大きく跳ねるのを感じた。今度こそ。今度こそ、あの日の続きが聞ける。俺は無意識にブランコを漕ぐ足を止め、彼女の方へと向き直った。夏希も、決意を固めたように、まっすぐな瞳で俺を見つめ返してくる。その唇が、ゆっくりと、言葉を紡ぐために開かれようとした、まさにその時だった。
彼女の視線が、ふと俺の背後、公園の入り口の方へと泳いだ。
「あ……」
つられて振り返ると、そこには部活帰りらしい後輩の女子生徒たちの姿があった。まだ距離はあり、俺たちのことには気づいていない。大丈夫だ、まだ時間はある。そう思った俺とは対照的に、夏希はハッとしたように、その姿を言い訳にするかのように、勢いよく立ち上がった。
「……ううん、やっぱり、また今度にする!」
「え?」
「ごめん、また今度、ちゃんと話すから!」
そう一方的に告げると、夏希は後輩たちに見つかる前にと、慌てて公園の出口へと駆け出してしまった。まるで、何かから逃げるように。
一人残された俺は、呆然と彼女の背中を見送った。違う。今のは、邪魔が入ったわけじゃない。彼女が、自らチャンスを潰したんだ。告白という行為によって、この曖昧で、もどかしくて、けれどどこか特別だった俺たちの関係が終わってしまうことを、彼女自身が恐れているように見えた。その事実に気づいた瞬間、期待は苛立ちへと変わり、俺の心に重く沈殿していった。
そんなすれ違いから一週間後、地元の神社では、夏の訪れを告げる最後の祭りが行われていた。男友達に無理やり連れ出された俺は、人混みの熱気にうんざりしながら、たこ焼きのソースの匂いや、祭囃子のけたたましい音に身を任せていた。
その喧騒の中で、不意に視界に飛び込んできた白地に朝顔の柄。人波の向こうで、友人たちと笑い合う夏希の浴衣姿だった。普段とは違う、うなじをすっきりと見せた髪型。カラン、と鳴る下駄の音。その姿に、俺は思わず足を止め、心臓が大きく音を立てるのを感じた。
友人たちと合流し、当たり障りのない会話を交わすうちに、いつの間にか俺たちは人混みの中ではぐれてしまっていた。まずいな、と思いながら辺りを見回していると、神社の脇道にぽつんと立つ夏希の姿を見つける。
「夏希」
「あ、春樹。はぐれちゃったみたい」
「みたいだな」
二人きりになると、途端に気まずい空気が流れる。俺たちはどちらからともなく歩き出し、本殿の裏手にある、少し小高くなった場所へとたどり着いた。そこは祭りの中心から少し離れているため、嘘のように静かだった。眼下には、提灯の明かりと屋台の賑わいが広がっている。
「ここ、穴場なんだ」
夏希がぽつりと呟いた。
深呼吸を一つした彼女が、俺の方に向き直る。その横顔は、覚悟を決めたように、ひどく真剣だった。
「春樹、今度こそ……聞いてほしい」
祭りの喧騒が、遠い世界の出来事のように聞こえる。俺は固唾を飲んだ。しかし、彼女はやはり、唇を数回開閉させただけで、言葉を飲み込んでしまう。その躊躇いが、俺の心をざわつかせた。
その時だった。
ヒュルルル……という、空気を切り裂くような音が響き渡り、夜空に巨大な光の花が咲き乱れた。
ドォォォン!
腹の底まで震わせるような轟音が、二人の間の空間を完全に支配した。色とりどりの光が、夏希の顔を照らし出す。その表情を見て、俺はハッとした。そこに浮かんでいたのは、恋する少女のそれではない。何かを深く決意し、しかし、どうしようもなく悲しみに暮れている顔だった。
その瞬間、俺の頭の中で、全てのピースが不吉な形にはまり始めた。
これは、好きだとか、そういう話じゃないのかもしれない。
彼女が何度も『春樹にだけは』と前置きし、これほどまでに悲しい顔をするなんて。まるで、誰にも言えないような、何か悪い知らせを打ち明けようとしているんじゃないか? 誰かが重い病気にかかったとか、取り返しのつかない事故に遭ったとか……。まさか、俺が何かしたのか……?
恋愛のドキドキは急速に冷めていき、代わりに、サスペンスにも似た冷たい予感が、背筋を這い上がってきた。
夏祭りから数日後。俺は、もうこの宙ぶらりんの状態に耐えられなかった。不吉な想像ばかりが頭を巡り、勉強も手につかない。俺は震える指でスマートフォンを操作し、夏希に『話がある』とだけメッセージを送り、駅前のカフェに呼び出した。
指定した時間きっかりに、夏希は現れた。緊張した面持ちで、俺の向かいの席に静かに腰を下ろす。テーブルの上の氷がカランと音を立てる。
俺は、恋愛の告白を促すような、そんな甘い言葉をかける気にはなれなかった。彼女のあの悲しそうな顔が、脳裏に焼き付いて離れない。俺は、彼女を気遣う方向から、真剣に切り出した。
「夏希、何か隠してるだろ。言いにくいことなのはわかる。でも、何か悪い話なら、ちゃんと言ってくれ。俺、聞く覚悟できてるから」
それが、俺にできる最大限の誠意のつもりだった。
しかし、その言葉を聞いた夏希の反応は、俺の予想とは全く違うものだった。
彼女は、虚を突かれたように大きく目を見開いた。その瞳には、一瞬、戸惑いの色が浮かび、そして次の瞬間には、深く、深く傷ついた表情へと変わった。
「違う……」
か細く、震える声が、否定の言葉を紡ぐ。
「そんなことじゃ……ない……」
その反応に、今度は俺が混乱した。悪い知らせじゃない? じゃあ、一体何なんだ? 俺の頭の中は、疑問符で埋め尽くされる。募りに募った苛立ちと混乱が、ついに抑えきれなくなった。
「じゃあ何なんだよ! いつもいつも言いかけてやめて! 俺にどうしろって言うんだ!」
声を荒らげてしまったことに、すぐに気づいて後悔した。だが、もう遅い。
俺の言葉は、最後の引き金になったようだった。夏希の瞳から、堪えていた涙が、堰を切ったようにぼろぼろとこぼれ落ちる。
彼女は、俺に最悪の誤解をされていることに、深くショックを受けていた。
「ごめん……」
夏希は、ただそれだけを呟くと、席を立った。
「もう、いい……」
そう言って、俺に背を向け、カフェを飛び出していってしまった。
一人残された俺は、呆然と彼女が消えたドアを見つめていた。テーブルの上には、彼女が一口もつけなかったアイスティーのグラスが、汗をかいてぽつんと置かれている。
「悪い知らせ」ですらない……? じゃあ一体、何だったんだ?
彼女を傷つけてしまったという、鋭い罪悪感。そして、さらに深まってしまった、底なしの謎。
俺は、自分の発した言葉の重さに押しつぶされそうになりながら、ただ激しく後悔することしかできなかった。
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