ただ一つだけ伝えたいこと(4話完結)

火之元 ノヒト

第1話 言えないコトバ

 ​じりじりと肌を焼くような西日が、教室の床に長い影を落としていた。液体になったみたいな熱い空気が、開け放たれた窓からぬるりと流れ込んでくる。窓の外では、グラウンドから聞こえる野球部の掛け声と、それを塗りつぶすような蝉時雨が混じり合い、飽和状態の夏の音を奏でていた。7月中旬。高校三年にとって、焦りと気だるさが同居する、特別な季節の始まりだった。


 ​俺、相葉 春樹あいば はるきは、誰もいなくなった教室で一人、日誌のペンを進めていた。今日の出来事、明日の予定。ありきたりな言葉をマス目に埋めていく作業は、思考を空っぽにするのに丁度いい。だが、そんなささやかな逃避も、耳に届く快活な笑い声によって簡単に邪魔をされてしまう。


 ​視線を上げると、廊下で数人の女子グループの中心にいる、幼なじみの広瀬 夏希ひろせ なつきが目に入った。夕陽を背に受けて、彼女の輪郭がキラキラと滲んでいる。その太陽みたいな笑顔は、昔から少しも変わらない。変わってしまったのは、俺と彼女を取り巻く環境の方だった。


 ​『小学生からの幼なじみ』。言葉にすれば、たったそれだけ。でも、その肩書きが今となってはひどく重たく、そしてもどかしい。小学校の頃は、家も近くて毎日一緒に帰っていた。クラスもずっと一緒で、隣にいるのが当たり前だった。だが、中学で初めてクラスが離れ、俺たちの間には気まずい距離が生まれた。俺は男子の、夏希は女子のグループにそれぞれ溶け込んで、気づけば挨拶を交わすことさえ稀になっていた。


 ​そして高校で再会した時、夏希はもう俺の知らない『広瀬夏希』になっていた。誰にでも壁を作らない明るい性格。いつも笑顔を絶やさない優しさ。男女問わず慕われる彼女は、あっという間にクラスの中心になった。一方の俺は、目立つことが苦手で、特定の世界だけで息をするような、そんな高校生になっていた。夏希は高嶺の花。そんな陳腐な言葉が、悔しいほどしっくりきた。


 ​だけど、俺は知っている。時折、彼女が見せる、ふとした瞬間の憂いを帯びた表情を。誰かと話している時に、一瞬だけ遠くを見つめる、その真剣な横顔を。明るい笑顔の裏に隠された繊細さに気づいてしまった時から、俺の中で『幼なじみ』という言葉は、別の特別な意味を持ち始めていた。


​「ねぇ夏希ー、夏休み、海行こうよ! 絶対!」


 友人の一人が弾んだ声で言う。夏希なら「いいね! 行こう!」と即答するだろう。そう思った。


「あー、ごめん……。今年の夏休みは、ちょっと家の用事が多くて……」


 彼女の返事は、意外なほど歯切れが悪かった。そしてその表情に、ほんの一瞬、寂しさと、何かを諦めたような焦りの色がよぎったのを、俺は見逃さなかった。すぐにいつもの笑顔に戻り、「また埋め合わせさせて!」と手を合わせる夏希。友人たちも「そっかー、残念!」とそれ以上は追及しなかったが、俺の胸には小さな棘が刺さったような違和感が残った。


 ​やがて友人たちが「じゃあねー!」と手を振って階段を降りていく。一人になった夏希が、ふとこちらを向いた。目が合う。俺は慌てて視線を日誌に戻した。心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。素直になれない自分が、本当に嫌になる。


 ​日誌を書き終え、「さて、帰るか」と椅子を引いた時だった。止まっていたはずの時間が、再び動き出す。

 教室の入り口に、夏希が立っていた。


「春樹、まだいたんだ」


 彼女は、何か忘れ物でもしたかのように、自分の机へは向かわずに、まっすぐ俺の席へと歩いてきた。一歩、また一歩と近づいてくるたびに、彼女が纏う石鹸の香りが濃くなる。俺は、どう反応していいか分からず、ただ突っ立っていることしかできなかった。


 ​机を挟んで、俺たちの間に奇妙な沈黙が落ちる。夏希は何か言いたげに唇を何度か開閉させた後、俯いて自分の指先をこすり合わせた。その仕草が、彼女の緊張をありありと伝えてくる。普段の彼女からは想像もつかないその雰囲気に、俺の心臓はさっきよりもさらに大きく、そして激しく脈打ち始めた。


 ​俺が小学生の頃、鉄棒から落ちて膝を擦りむいて泣いていた時、夏希は何も言わずに自分のスカートのポケットからハンカチを取り出して、俺の膝にそっと当ててくれた。その時の不器用な優しさが、今目の前にいる彼女と重なる。

 中学時代、廊下でばったり会った時、お互いに何を話していいか分からず、目を逸らして通り過ぎてしまった。あの時の気まずさが、今になって胸の奥で疼く。

 高校で同じクラスになれた時は、本当に嬉しかった。これでまた、昔みたいに話せるかもしれない。そんな淡い期待は、彼女を取り巻く華やかな輪の前に、あっけなく打ち砕かれたけれど。


 ──​それでも、俺は。


​「あのさ」


 夏希が、ようやく顔を上げた。その瞳は、夕陽のせいか、それとも何か別の理由があるのか、潤んでいるように見えた。


「春樹。一つだけ、聞きたいことがあるんだけど」


 真剣な、射貫くような眼差し。その言葉の響きに、俺の全身の血が沸騰するような感覚に陥った。


 なんだ、何を聞かれるんだ? 告白? いや、自意識過剰だ。それなら、相談? 誰か好きなやつでもできたのか? もしそうなら、俺はどんな顔でそれを聞けばいい? ぐるぐると、思考が嵐のように駆け巡る。


 期待と不安が綯い交ぜになった感情を押し殺し、俺はポケットに手を突っ込んだまま、精一杯ぶっきらぼうな声を絞り出した。


「……なんだよ?」


 ​夏希の唇が、ゆっくりと開く。その瞬間、世界から音が消えたように感じた。

 だが、彼女が言葉を発するよりも早く、グラウンドからひときわ大きな金属音と歓声が響き渡った。快音を響かせた打球が、校舎の壁に当たったらしい。


「カキーン!」「うぉぉぉーっ!」


 その現実の音に、夏希はハッと我に返ったように視線を窓の外へ移した。そして数秒後、俺の方へ向き直った時には、もう彼女の瞳からさっきまでの真剣な光は消え失せていた。


「……ううん、やっぱり、なんでもない!」


 彼女は、まるで仮面を被るように、いつもの明るい笑顔を作って首を横に振った。


「ごめん、変なこと言って! じゃあね!」


 そう早口でまくし立てると、夏希はくるりと背を向け、パタパタと軽い足音を立てて逃げるように教室を出ていった。


 ​一人、教室に残された俺は、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。廊下に響いていた彼女の足音も、もう聞こえない。ただ、蝉の声だけが、やけにうるさく耳に残っている。


 ふと、自分の机に視線を落とすと、そこに小さな消しゴムのカスが一つ、落ちていた。さっきまで夏希が立っていた場所だ。おそらく、彼女が持っていたシャープペンからこぼれ落ちたものだろう。


 ​俺は、その小さな白い欠片を、指先でそっとつまみ上げた。甘酸っぱいような、それでいてひどくもどかしい感情が、胸いっぱいに広がっていく。


 彼女が本当に聞きたかったことは、なんだったのだろう。


 あの真剣な瞳の奥に隠されていた言葉は、なんだったのだろう。


 ​翌日、学校で会った夏希は、昨日の出来事などまるでなかったかのように、いつも通りに笑っていた。その完璧な笑顔が、俺には少しだけ、悲しいもののように見えた。


 こうして、俺の「もどかしい夏」は、一つの大きな謎を抱えたまま、静かにその幕を開けたのだった。

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