第3話 8月31日の不在

 ​カフェを飛び出して行った夏希の、あの傷ついた瞳が、瞼の裏に焼き付いて離れない。俺の放った言葉が、鋭いナイフとなって彼女の心を切り裂いたのだと、嫌でも理解できた。あの日以来、俺たちの間に流れていた細い糸は、完全に断ち切れてしまった。スマートフォンの画面は沈黙を保ったまま、ただ虚しく時間だけが過ぎていく。


 ​何度、謝罪のメッセージを打ち込んでは、消去ボタンを押しただろうか。『ごめん』という二文字が、あまりにも軽く、そして無責任に思えた。どんな言葉を尽くしても、俺が彼女に与えた傷は癒せないだろう。そう思うと、指が動かなくなった。


 ​じりじりと照りつけていた太陽はいつしか勢いを失い、窓の外からはツクツクボウシの鳴き声が聞こえるようになっていた。夏の終わりを告げるその声は、まるでタイムリミットを知らせるブザーのように、俺の焦燥感を煽った。夏休みが終わる。このままでは、謝ることさえできないまま、俺たちの二学期が始まってしまう。それだけは、絶対に嫌だった。


 ​八月三十一日。長く、そして短かった夏休みの最後の日。


 俺は、意を決した。メッセージや電話じゃない。直接会って、ちゃんと謝ろう。どんなに罵られても、もう二度と口を利いてもらえなくてもいい。ただ、自分の口から、自分の言葉で、謝罪の気持ちを伝えたかった。それが、俺にできる唯一の、そして最後の償いだと思った。


 ​心臓を早鐘のように打ち鳴らしながら、俺は夏希の家へと向かう道を走っていた。頭の中では、何度も何度も謝罪の言葉を反芻する。


「あの時は、どうかしてた」

「お前を傷つけるつもりなんてなかったんだ」

「本当に、ごめん」


 そんなありきたりな言葉しか、思い浮かばなかった。


 ​角を曲がり、見慣れた彼女の家の塀が見えてきた。息を整え、門の前までたどり着いた俺は、その光景に、思わず息を飲んだ。


 何かが、違う。


 いつもそこにあるはずの、『広瀬』と書かれた陶器の表札が、ない。その代わりに、門柱にはプラスチック製の、冷たく無機質なプレートが取り付けられていた。そこに書かれていたのは、不動産屋の名前と、『売家』という二文字だった。


 家全体が、まるで抜け殻のように静まり返っている。カーテンは全て閉め切られ、人の気配がまったくない。夏の間、彼女が毎日水をやっていた玄関先のプランターの花は、力なく萎れていた。


 ​俺は、何が起こったのか理解できず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。


「あら、春樹くんじゃない」


 不意に、背後から声をかけられた。振り返ると、隣の家に住む、顔見知りの奥さんが買い物袋を提げて立っていた。


「こんにちは……」


「こんにちは。広瀬さんちに御用? それがねぇ……」


 奥さんは、少し気の毒そうな顔で、言葉を続けた。


「広瀬さん一家なら、一週間くらい前に、お父さんのお仕事で遠い国に引っ越されたわよ。ずいぶん急だったみたいで、私たちも驚いちゃった」


 ​その言葉は、何の比喩でもなく、俺の頭を鈍器で殴りつけたような衝撃を与えた。


 引っ越した……? 一週間も前に……?


 足元から、地面が崩れ落ちていくような感覚。世界から、色が、音が、消えていく。奥さんが何かまだ話しているようだったが、その声はもう俺の耳には届かなかった。俺は、かろうじてお辞儀をすると、ふらつく足でその場を離れた。


 ​どうして。なんで。


 頭の中で、同じ言葉がぐるぐると回り続ける。


 その瞬間、この夏に起きた出来事のすべてが、稲妻のように脳裏を駆け巡り、一つの残酷な真実に繋がった。


 ​公園で、後輩の姿を見つけて口をつぐんだ、あの躊躇い。


 それは、告白をして、この街での最後の夏を「終わり」にしてしまうのが、怖かったからだ。


 ​花火に照らされた、あの悲しそうな横顔。


 それは、もうすぐこの街を離れなければならない、どうしようもない寂しさの表れだったんだ。


 ​そして、カフェでの、あの傷ついた瞳。


 俺は、彼女が打ち明けようとしていた切ない想いを、「悪い知らせ」などという最低の言葉で踏みにじった。ただでさえ、別れを告げることで精一杯だった彼女を、俺は、絶望の淵に突き落としたんだ。


 全部、俺のせいだ。


 俺が彼女の優しさに甘え、その繊細な心に気づくことができなかったから。俺が、自分勝手な想像で、彼女を追い詰めてしまったから。


 何も伝えられないまま、彼女は行ってしまった。


 後悔が、黒い絶望となって、俺の心を塗りつ潰していく。もう、会って謝ることも、想いを告げることも、永遠に、永遠にできなくなってしまった。


 ​気づけば、俺の足は、無意識に、あの高台の公園へと向かっていた。


 石段を上り、開けた場所に出る。そこに、彼女がいるはずもないことは、痛いほど分かっていた。


 夕日が、空と街をオレンジ色に染めている。


 いつも二人が座っていたベンチは、当たり前のように空っぽだった。


 俺は、そこにゆっくりと腰を下ろした。隣に、もう夏希はいない。その事実が、耐え難いほどの重さでのしかかってくる。


 ​ここで交わした、くだらない会話。二人で見た、美しい夕焼け。俺の脳裏に、夏希との思い出が次から次へと溢れ出し、視界が滲んでいく。


 守りたかった。大切にしたかった。それなのに、俺は、自分の手で全てを壊してしまった。


 堪えきれなくなった涙が、頬を伝って、ぽたぽたと地面に染みを作った。声を殺して、俺はただ泣いた。夏の終わりの空気が、やけに冷たく感じられた。


 ​どれくらい、そうしていただろうか。


 涙で滲む視界の先、俺が座っているベンチの、木目が剥がれた隅に、何か小さなものが挟まっているのが、ふと目に入った。


 なんだろう、と濡れた手でそれを引き抜いてみる。


 それは、雨に濡れないように、小さなビニール袋に丁寧に入れられた、一通の封筒だった。


 白く、何の変哲もない封筒。


 だが、その中央に書かれた二文字を見た瞬間、俺の心臓は、止まりそうなくらい、大きく跳ね上がった。


 ​見慣れた、少しだけ丸みを帯びた、彼女の字だった。


 ​『春樹へ』


 ​震える指で、俺はその封筒を、ただ固く握りしめることしかできなかった。

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