【判決を超えて】第二章 その名はTC

 朝の光がビルの隙間から差し込む頃、陽菜は、ようやく椅子の背に身を預ける余裕を得ていた。

 前夜の緊迫を思い出すたびに、背筋がわずかに強張る。死刑囚・里見悠斗が、刑の執行寸前で救われたという事実。その裏で何が行われていたのか――陽菜はまだ、それをすべて理解できてはいなかった。

 それでも、あの瞬間に確かに感じたものがある。

 静かに鳴った電話、受話器を置く御堂の手の震え、時計の針が刻んだ一秒の重み。それは、法律でも制度でもなく、「人」が誰かを救ったという確かな証明だった。

 

 オフィスのホワイトボードには、いつの間にか新たな文字が追加されていた。

 “TC(トゥルース・コード) 第91号案件 ――里見悠斗事件”

 黒と赤で書き分けられたそのタイトルを、御堂はしばらく眺めていた。

 「コードは発動された。これは“冤罪の疑い”という段階ではない。司法が再審請求を受理し、“開始を検討する”時点で、我々は真相を暴く義務を持つ。」

 御堂の声には、特別な抑揚はない。ただ、その静けさが、陽菜にはひどく重く感じられた。

 「トゥルース・コード……それって、どういう意味なんですか?」

 陽菜の問いに、御堂は眼鏡越しに彼女を見た。ほんの一拍の間を置いてから、応える。

 「“真実にたどり着くための連鎖”だよ。法、科学、心理、情報、現場。それぞれが独立しているように見えて、実は一つひとつが繋がっている。どれか一つが欠けても、真実には辿り着けない。だから我々は、その“コード”を解く」

 

 

 その日の午前中、TC本部では、チーム全員が揃って里見事件の共有会議に臨んでいた。

 槇村聡――元科学捜査研究所の技術顧問。

 夜野凜――元通信傍受センターのデータ分析官。

 秋津修平――警視庁捜査一課出身の元刑事。

 香坂怜――臨床心理士にして、元家庭裁判所の調査官。

 そして代表の御堂慎一。元検察官。

 それぞれが静かに席につく。陽菜は一番端の椅子に腰を下ろし、ノートを開いた。彼女にとっては、TCへの参加初日。だが、その空気は、あまりにも“現場”だった。

 御堂が最初に資料を広げた。

「事件の概要はこうだ。三年前、東京都内のマンションの一室で、佐藤春奈(26歳)が刃物で刺殺された。第一発見者は香山警部補。被害者から以前「ストーカー被害相談」を受けていた関係で、定期巡回の一環として訪問し、室内で遺体を発見した。現場には争った形跡がなく、室内には被害者の恋人だった里見悠斗のDNA、足跡、そして“自白”が存在する。……法的には、完璧な三点セットだ」

 陽菜はページをめくりながら、その“整いすぎた構図”にかすかな違和感を覚えた。

 御堂が指を鳴らすと、モニターに現場写真が映し出された。白いシーツ、赤黒い血痕、凶器とされるナイフ、そしてテーブルの上に置かれたワイングラス。まるで、誰かが“典型的な殺人現場”を演出したかのようだった。

 「自白は、どうだったんですか?」

 陽菜が口を開く。

 香坂がすぐに答えた。

 「里見は、“夢の中だった”と語ったあと、すぐに自白に転じたわ。でもその自白は、時系列が一貫していない。明らかに“記憶”ではなく、“物語”として語られていた」

 「誘導されていた?」

 「可能性は高いわね」

 槇村が、別のファイルを差し出した。

 「鑑定結果は、血痕からのDNA一致が決め手になっている。けど、提出された画像の一部が……ちょっとね。解像度が異常に高い部分があった。まるで誰かが“その部分だけ”を加工したような印象だった」

 「証拠を“整えた”誰かがいる可能性があるってことですか?」

 陽菜の声は、まだ新人のそれだった。だが、問いは鋭い。

 御堂が頷いた。

 「この事件には、何かが隠されている。そして、それを隠したのは、犯人だけじゃないかもしれない。……司法のどこかに、“静かな殺意”が紛れている可能性がある」

 


 陽菜は、自分のノートに目を落とした。“真実にたどり着くための連鎖”。その言葉が、脳裏で何度も反響する。

 誰かを救うということは、過去と戦うことだ。

 その過去には、人の誤りも、怠慢も、そして時には意図的な悪意すら含まれる。

 それを暴こうとするこの集団――トゥルース・コード。

 その名の意味を、陽菜はこのとき初めて、自分の言葉として感じていた。

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