トゥルース・コード — 冤罪救済班 —
kirigasa
【判決を超えて】第一章 真実の戦い
午前五時五十九分。東京拘置所の空気は、いつにも増して静まり返っていた。分厚いコンクリートの壁の向こう、執行室の前室には、制服の男たちが数人、無言で立っている。
里見悠斗は、椅子に座ったまま、その手をわずかに震わせていた。足枷はすでに外され、代わりに特殊な布製の帯が胸元に巻かれている。手錠が外されたことに安堵するような顔を見せたかと思えば、次の瞬間には、それ以上に深い絶望が瞳を支配した。
「準備を」
刑務官が短く告げる。
人が死ぬ瞬間というものは、もっと劇的なものだと彼は思っていた。涙と叫びと取り乱しの果てに迎える最後。だが現実は、あまりにも静かで、事務的だった。まるで、事前に決められた一枚の設計図に従って、機械が人間を処理しているかのようだ。
時計の秒針が、一秒を刻むたび、死が一歩ずつ近づいてくる。
「最後に、何か……」
刑務官が問いかけた。声には感情がなかった。だが、それを咎めるつもりにもなれなかった。彼らは毎日、そうやって死を見送る訓練をしているのだ。
里見は首を振った。いや、何かを言おうとしたのかもしれない。口がわずかに動いたが、声にはならなかった。
午前六時、ちょうど。
その瞬間、内線電話が鳴り響いた。
刑務官たちが一斉に動きを止める。誰かがすばやく受話器を取った。間を置かず、低く、硬い声が電話の向こうから発された。
「再審請求を受理。執行を停止せよ」
言葉が空気を凍らせた。
刑務官は受話器を置き、執行責任者に視線を向ける。その男は、わずかに眉をひそめたが、すぐに頷いた。
「執行中止。被収容者を戻せ」
手続きは驚くほど早かった。刑務官たちは無言で動き、里見をその場から立たせた。彼は何が起きたのか理解していないようだった。両足は震え、瞳だけが虚空をさまよっている。
「どういうこと……? 中止って……」
彼の声はかすれていた。だが、確かに生きていた。
同じ刻。東京都千代田区、古びた雑居ビルの五階。
「トゥルース・コード(TC)」と名付けられた小さなNPO法人のオフィスには、まだ明かりが灯っていた。
長い夜を戦い抜いた室内には、使い古された白板、乱雑に置かれたファイル、そして飲みかけの缶コーヒーが散らばっている。デスクの奥、電話の子機を耳に当てたまま、御堂慎一はじっと黙っていた。
「……確認しました」
受話器を置く手がわずかに震えたのは、疲労のせいだけではない。
室内にいた高城陽菜が、小さく息を呑んだ。
「……成功、したんですね?」
御堂は頷いた。
「再審請求が受理され、執行は一時停止された。だが再審開始は未決。俺たちはその審理に間に合わせて真実を整える」
それだけを言って、彼は椅子に腰を落とした。スーツの襟が少しよれている。目の下の隈は深く、声にはほとんど力がなかった。
だがその顔には、微かだが確かな満足が宿っていた。誰にも知られず、誰にも称賛されることのない勝利の味。それは、己の信念だけを糧に闘う者にしか味わえない達成感だった。
陽菜は立ったまま、デスクの上の時計を見つめた。赤い秒針が、ゆっくりと、だが確実に時間を刻んでいた。もし、あと一分遅れていたら――そんな“もし”を考えたくなるような朝だった。
「これが……TCの仕事なんですか」
彼女の声は、問いかけというよりも、自問に近かった。
御堂は答えなかった。だが、静かに目を閉じ、背もたれに身を預けたその姿が、すべてを語っていた。
一枚の判決文が、真実を語ることはない。 整えられた証拠、訓練された証言者、正確無比な科学鑑定。そうした“完璧”の寄せ集めが、たったひとつの過ちを覆い隠すことがある。人が人を裁くという行為が、“制度”である以上、誤りは避けられない。
だが、そこに抗おうとする人間がいる。 御堂慎一という男の静かな怒りが、この一夜を動かした。そして彼の背後には、それぞれの分野において“確かな目”を持った者たちがいた。科学者、元刑事、心理学者、情報技術者。そして、いまこの場所に足を踏み入れたばかりの、名もなき一人の新人。
まだ誰も気づいていなかった。 この瞬間から、ひとつの“真実の戦い”が始まろうとしていることに。
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