4-2
砂紋に刻まれた最後の印が消えると、辺りは元の夜闇に包まれた。イトは肩を上下させながら大きく呼吸をしていた。心臓の脈打つ音は未だ収まらない。
砂鯨が毒で弱っていく数時間のあいだ、イトは砂鯨の傍にいたが、傍にいただけで何もしなかった。もちろん言い訳ならばいくらでも出てくる。たとえば、助けを呼びに街まで徒歩で行ったとしても、戻ってくるまでに半日はかかるだろうから、毒蠍に刺された時点で既に手遅れだった、など。持ち合わせに解毒薬などあるはずもなかったし、どう足掻いても手遅れであることに疑いはなかった。しかし、「これはもう手遅れだ」と見切りをつけるのが、あまりに早すぎた。冷静で現実的な判断といえば聞こえはいいのかもしれない。しかしそれでも、苦しみ悶える砂鯨のために、もっと何かしてやれることはないかと考えるべきだったのではないだろうか。
混乱していた、戸惑っていた、憔悴していた、それらはいずれも偽りではない。しかし、それらに紛れて、ほんの僅かなの安堵があったこともまた真実だった。もしこのまま砂鯨が死んでしまえばどうなる? イトの行き詰まった状況が変わるきっかけになる、イトは砂漠の外へ出て行ける、そうして旅をやり直すことができる! そんな可能性に一瞬でも心が揺らいでしまった。その事実は、イトが砂鯨と過ごしてきた八年間に対する冒涜であり、そんな気持ちが自分の中に一瞬でも芽生えたことなどあってはならないことである。故に、イトは、即座に思考を停止させ、浮かんだ可能性を忘却し、思い出すことさえも放棄した。目の前の砂鯨を助けたり、苦痛を和らげたりするための方策もろとも、考えることを放棄したのだ。そして、イトが呆然としている間に、砂鯨は苦しみ抜いた末に事切れた。このようにしてイトは砂鯨を見殺しにしたのだ。
「最低だ」
そう呟く自分自身をイトは軽蔑した。イトと砂鯨は魂の片割れのように互いで互いを補い合ってきたはずだし、そのことに安らぎを感じてさえいたはずなのに、今やその自負やすっかり空虚なものになってしまっていた。
唄と舞を終えたルシャはイトの前を素通りし、再び火をおこしていた。ちりん、ちりんと鳴る鈴の音がいやに響いて聞こえてくるのは、お互い何も喋らないからである。
ルシャは茶を淹れていた。外套を羽織り、コップを両手で包んで暖を取る。背後でイトが呆然と立ち尽くしているのは知っているが、声は掛けない。イトが自身の心の奥底に見つけた真実が何であれ、それと対峙するのは本人がすることであり、部外者であるルシャたちが立ち入るべき領域ではないからだ。
見上げれば空には先ほどと変わらず星々が瞬いている。静かな夜が戻ってきている。
天は地上にひしめく生き物の個別の心を斟酌などしない。世界は森羅万象を統べる法則と秩序に従い、流転していく。死んだ者は肉体と魂に分かれ、肉体は地に還り他の生物の命の糧となる。魂は冥界の門を通っていく。人も、砂鯨も、あらゆる生物においてもその道理に例外はなく、抗う術はない。道理の絶対性を嘆き、憎み、怒りを振り向けても、天が地上にひしめく生き物の個別の心を斟酌などしない以上、心なるものを得てしまった者は、溶岩のように煮え滾る苦汁を嚥下し、堪え忍び、受け止めていく他にない。それができなければ心を手放すしかない。
ルシャは茶を飲み干すと、二煎目を淹れた。そろそろ日付を跨ぐ頃だろうか。夜明けはまだ遠い。
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