5-1
夜明けは唐突には訪れない。無限の星々の背後にあるのは暗黒の宇宙だ。それが東の方から次第に紫紺、藍色を得ていく。星の光は夜闇が薄らいでいくとともに目醒めつつある空の色と同化していく。それと時を同じくして空全体が赤く焼けていき、太陽が地平線から顔を覗かせる。
射し込んだ光がイトの瞳を貫いた。砂鯨の巨躯を照らし出し、曲線の輪郭を浮かび上がらせた。
「夜が明けたな。気持ちの整理はついたか?」
焚火の火を踏み消しアルフィルクが立ち上がる。傍らにはグラジとマユワ、ルシャ。
「これで整理がついたように見えるか?」
「見えないな。しかし、関係ない」
イトは目を逸らし、薄れゆく夜闇に目を向けた。アルフィルクはそれを黙認と受け取る。
「グラジ、始めるぞ」
「わかった」
「死んでからもう丸一日以上経っている。使えない部位は捨てろ。砂漠の野ネズミどもにくれてやれ。俺たちの取り分は使えるところだけでいい。細かい判断と指示はお前が出せ。ただし二秒以上迷ったら俺に聞け。判断してやる」
グラジは長柄の鯨包丁を手に歩みだし、その後ろにアルフィルクが続く。二人はイトの傍らを通り過ぎた。
砂鯨の解体はまず尾鰭から頭に向けて一直線に刃を入れることから始まる。厚い皮は砂漠を生きる砂鯨が日光の熱から身を守るために発達したものだ。断面は真っ白であり、日光を照り返すと実に眩く、思わず目を細めるほどである。手頃な大きさに皮を区切ったら、今度はアルフィルクとグラジが二人がかりで皮と皮下の肉を切り分ける。一人が皮を引っ張り、もう一人が刃を差し入れて皮を剥ぐのだ。そうして剥き出しになった砂鯨の肉は死後一日以上経過したにも関わらず瑞々しく波打っていた。
しかし日の下に晒された以上、肉は刻一刻と干乾びていく。夜が明けて間もない今は夜の冷気が腐敗を遅らせてくれているが、気温が上がればそうはいかなくなる。ただちに血抜きをして、乾燥させるのに最適な状態にしなければならない。同時に各種臓物も摘出し、部位毎に整理し後々活用できるものはそれぞれに合った保存方法を適用してやらなければいけない。また、食用の部位は街に戻った後、市場で売るのだが、毒蠍の毒に冒された箇所は商品にはならないので、その見極めも正確にやらなければいけない。作業の優先順位、廃棄するか否かの判断は砂鯨の状態を見ながらグラジが即座に判断し、アルフィルクに指示を出す。そして先ほどアルフィルクが言った通り、グラジが判断に迷う場合には逆にアルフィルクに指示を請うのだ。たとえばこのように。
「団長、人間が食うには危険だが、家犬に食わせる分には売り物になりそうな肉だ。どうしたらいいだろうか」
「あの街で犬を飼う金持ちなんか指で数えるくらいしかいない。捨てろ」
このようにして二人は作業の効率性を極限まで高め、一瞬たりとも無駄な時間は生まないようにしていた。
みるみるうちに砂鯨が小さく切り分けられていくのをイトは眺めていた。心の内が凪のように静まり返っているのは、あまりの手際の良さに感心しているからだった。所詮、砂鯨の体とは骨と肉と血と皮の複合体なのだということを嫌というほど思い知らせてくれる。共に過ごした八年間を思い出して感傷に浸る余地がない。人の手で解体されるか自然の生物により食い散らかされるかという差はあれども、死んだ生物とはこのように分解されて自然に還っていくものなのだ。
解体作業は一時間程度で終了した。夜の冷気はすっかり消え失せ、じりじりと地表から熱がせり上がってきている。アルフィルクとグラジは小分けにした肉や皮を砂船に運び込み、ルシャとマユワが布で臓物の血抜きをしたり骨を磨いたりするほかに、それ以外の細かい作業を行っている。グラジとアルフィルクの判断で不要とされた残骸は小山となって砂鯨が死んだ場所に積まれていた。毒に冒されたであろう肉や皮、使い道のない骨など。これらはこのまま捨て置かれて、砂を浴びて、やがて地に埋もれていくのだろう。あるいはその前に砂漠の生物たちが齧っていくのかもしれない。
「はい、これ」
唐突に声を掛けられ振り返ると、マユワが拳大の白骨をイトに突き付けていた。昨日、イトがアルフィルクたちを試すために、喉響骨をよこせと言ったことを今になって思い出す。
手を差し出し、イトはそれを受け取った。大きさに反して驚くほど軽く、滑らかな手触りだった。マユワが丁寧に磨いてくれたのだろうが、喉響骨には肉片が一切残っていなかった。角度を変えながら、砂鯨の喉にあった骨を眺めまわす。これをこのまま懐に忍ばせて持ち運ぶには少し大きすぎるように思う。何かしらの工夫が必要だが、案は今すぐには出てこない。まあ、後で考えるか……。イトが顔を上げるとマユワは既に立ち去った後だった。
「さて、朝飯にするか! 落ち着いたら飯の準備をするぞ!」
ルシャがイトを一瞥する。しかし、それにイトが気付いて目が合う直前にルシャは顔を背けた。その様子を遠巻きに見ていたアルフィルクが溜息をつく。グラジとマユワは黙々と自分の作業をこなしていた。
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