4-1
イトが砂鯨と続けてきた八年間の旅路は目的も目指すところもなく、ただ流されるがまま東から西へ、西から東へと移動するものだった。旅立った当初こそ、見知らぬ土地へ行けば想像を超える出会いがあるかもしれないと期待に胸を膨らませたものだが、そんなものがついに現れることはなかった。砂漠はどこまで行っても砂漠だったし、行く先々で肌の色や言語に違いはあれども、そこにいたのは同じ人間だった。そんな失望を繰り返し、ついに地図上にある町や村の全てを訪れてしまった。砂漠から先に行けばもっと新しいものがあったのかもしれないが、砂鯨とは砂漠に生きる生物であり、砂漠を離れて生きる術はない。砂鯨と共にある限りイトは砂漠の外に出ることができなかったが、砂鯨を捨てるという発想は微塵もイトの頭にはなかった。世界にはイトと砂鯨の二人きりであり、お互い以上に大事にすべきものはない。
一方、閉ざされた砂漠の中に二人の居場所はない。二人で居続けるためならば多少の悪事に手を染めることも厭わなかったからだ。わずかばかりの路銀を懐に抱えて夜中に街から逃げ出すことも珍しくなかった。遠のく街の灯りを振り返りつつ、「もうあの街には行けないな」と砂鯨に語りかけたものだ。風とは止んだ瞬間に風ではなくただの空気になってしまうものであるように、二人もまた放浪し続けることで、かろうじて二人で共にある状態を維持することができていた。
こんな暮らしがあと何年続くのだろうか――砂鯨の背に揺られていて、ふと考え始めてしまう。しかしその結論が明るく幸福なものであることはない。それでもすべてがうまくいって、後ろ指をさされることなく、穏やかに暮らす方法はないものか。そう考えて浮かぶのはこれまで散々裏切ってきた恩人たちの顔である。彼らの失望と憎悪に染まった顔が、どちらの方角を向いても視界に入り、罵声が耳に届く前に手で耳を塞ぐ。このような思考の悪循環から逃れることができない。こんな暮らしをこれから五年、十年と続けていくのだろうか。イトも砂鯨もいずれ老いていく。そうでなくとも、こんな日陰者の生き方をしているのだから、いつ野垂れ死にしてもおかしくない。イトは自分が死ぬこと自体に未練はないが、砂鯨を残していくことは心残りだった。残された砂鯨は野生に還り、何者かに捕まってどこかの砂鯨商人のもとで再び商品として売り出されてしまうのだろうか。
そう考えると、こんな暮らしは長く続けるべきではないという結論に至る。どこかの街に根を下ろし、定職を見つけ、家を持つ。所帯を持つことまで想像するのは流石に妄想が過ぎるとしても、砂鯨と二人で安定して暮らせる場所を見つけるべきだ。もはや旅に対して無邪気な憧れを抱ける年でもない。誠心誠意、地に頭をこすりつけて謝れば聞く耳のひとつでも持ってもらえるだろうか。あるいはまだ行ったことのない場所、それこそさびれた小さな村でもいい、とにかく自分たちのことを知らない人たちの間で、人生をやり直してみるのがいいだろうか。
しかし、ふらりと訪れた素性の知れない青年と砂鯨に土地と建物を分けてやるお人好しなどそうそういるものではない。それどころか、イトの悪評がどこからともなく噂として流れ着き、昨日まで笑顔でいてくれた人が翌日には目も合わせてくれなくなる。小声で囁かれる言葉の全てがイトを責め立てるもののように錯覚してしまう。もはや家探しや仕事探しどころではなくなってしまう。その結果、これまでそうだったように、夜闇に紛れてこっそり逃げ出さざるを得ない。そして、たまに真心から情けを掛けてくれる人が現れたとしても、砂鯨が嫉妬に駆られて追い払ってしまうのだ。巨体で親切にしてくれた人に迫り、圧殺する寸前でイトが間に入って食い止めたことは、決して一度や二度ではなかった。
砂鯨のイトに対する態度が変わってきたのはおよそ一年前、旅立ってから七年目のこと。きっかけが何だったのかは思い出せない。積もり積もったものが我慢の限界を超えて少しずつ溢れていった、というのが実態だったのだろう。いずれにせよ、イトが気付いた頃には砂鯨はすっかりイトのことを愛していた。
四六時中常にイトの傍を離れようとせず、体をイトに擦り付け、甘えたような鳴き声を出す。砂鯨は元々人に懐きやすく、そのような挙動をすることはそう珍しいことではないのだろうが、たとえば旅の途上でたまたま関わりを持った人を追い払おうとする、といったようなことが起こってしまうと、流石に度が過ぎていると判断せざるを得なかった。
「お前、最近どうしたんだよ」
イトが頭を撫でてやると、砂鯨は満足げに深く息をついた。イトの苦悩などまるで知らず、今この瞬間が永遠に続くものと信じて疑わないようだった。しかしその呑気さに心が苛立ってしまう。つい気が立って言葉が荒くなる時もあったが、砂鯨の悲し気な鳴き声を聞くと、たちまち苛立ちは消え失せ、申し訳なさの方が先立ってしまう。そして途方に暮れる。
七年間を共に過ごしてきて、砂鯨に砂鯨なりの感情があることを疑う余地は今更ない。問題は、どの程度複雑な感情を有し得るかを想定することだ。人間であれば、喜怒哀楽を基本的な感情の幹として、そこから枝葉が分かれて得も言われぬような感情が果実としてなることもあるだろう。純粋な喜怒哀楽とはそうそうあるものではなく、往々にして、嬉しいけど悲しい、腹立たしいけど楽しいといった、相反する感情が同時に心に去来することも少なくない。人同士ならば自分自身のことから類推して、相手も自分と同じように複雑な感情を有し得ると想定するのは自然なことだが、はたしてその類推を砂鯨にも当てはめてよいものか。おそらく大多数の人がそうであるように、イトもまた、砂鯨に対して人間と同等の複雑な感情が生じ得るとは想定していなかった。どんなに大事な家族だとしても、砂鯨は所詮砂鯨である。人と砂鯨の間には種族の壁があり、その壁を跨いで夫婦になるなどというのは遠い異国の神話の世界だけで十分だ。
しかしイトはその考えが誤っていると思い知らされた。ある晩のことである。
その日、砂鯨は特にイトに対して甘え、じゃれついていた。砂鯨の巨躯でじゃれつかれるのは、一歩間違えば死に直結するものだが、少なくともこの七年間はそのような危険に晒されることはなかったのだ。
しかしその晩は違った。砂鯨はイトの頬に頭を擦り付け、そのままイトを押し倒した。そしてイトの上半身を押さえつけ、くぉん、くぉん、と悲しみの声で鳴いていた。その様子は遥か昔にイトが捨てた、故郷の弟たちを思い起こさせる。弟たちも互いに喧嘩してはイトの胸の中でいかに自分に非がないかを訴えたものだ。
「どうしたんだよ、本当に……」
イトは仰向けになりながら砂鯨の頭を撫でてやる。そして離れるよう砂鯨の頭を軽く叩いて合図を出したが、砂鯨は鳴き続けるばかりで一向に動こうとはしなかった。それどころか、ますます強く頭を擦り付けてくる。ゆっくりと、しかし確実に肺が圧迫される。肋骨が軋み、内臓が居場所を失いつつあるのを感じる。逃れることはできそうにない。その先にあるものは――死。
唐突に訪れた生命の危機はイトに一切の思考を許さなかった。あの砂鯨がどうして突然こんなことを、と考える暇などない。本能が死を恐れる。殺されたくない、死にたくない。ただその一念で、イトは砂鯨の頭を力の限り殴りつけた。しかし人と砂鯨とでは体格に歴然たる差があり、巨躯にはびくともしなかった。それでもイトは砂鯨の頭を殴り続ける。殴り続けた。
体にかかる圧力は唐突に途切れた。朦朧とする意識の中、必死に肺に空気を送り込む。遅れて今になってようやく自覚された痛みが全身を駆け巡る。視野はしばらく明滅していたが、次第に収まり像を結ぶようになってきた。そこに至ってようやく、イトは自分の身に起こったことについて考える余裕が出てきた。
一体何が起こったのか。イトは砂鯨に押し倒されて、殺されかけた。そう、砂鯨はイトを殺そうとしたのだ。そして、それを途中で思い留まった。
七年間の軌跡を思えば俄かには信じがたいことだったが、そうとしか表現せざるを得ない。首だけ起こして辺りを伺うと、砂鯨は少し離れたところで蹲り、イトの方を見つめていた。いつもの見慣れた黒い双眸に浮かんでいたのは。憔悴の色だった。今の状況に閉塞感を感じ、もがき苦しんでいたのはイトだけではなかったということだ。
砂鯨はのそりと起き上がると、再度イトの傍にやってきた。そして今度は優しくイトの頬に頭を擦り付けたが、それは許しを請うようでもあった。
その一件以来、二度と砂鯨がイトを襲うことはなかった。また、砂鯨がイトに近づく人を追い払うこともなくなった。砂鯨はすっかり砂鯨らしい砂鯨になり、イトと砂鯨の間には見えない境界線が引かれたのだった。
イトは砂鯨の背に揺られ、どこまでも続く砂色の地平線を見つめながらぼんやりと思い出す。いつだったか、砂鯨商人が「この砂鯨は訳ありだ」と言っていた。すっかり忘れていたが、この砂鯨は過去に一度、自分の主を己の意思で殺しているのだ。今なら何があったのかは大体想像がつく。
「人と砂鯨だもんなあ……そりゃあ、無理だよ」
イトと砂鯨が共に行く先には破滅しかないが、そこから逸れる道もない。終焉に向かってゆっくりと一人と一匹は旅を続けていた。
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