第8話 優斗の訪問と光

 学校に行かなくなって、五日が過ぎた。


 私の心は、深い絶望の淵に沈んでいた。


 再び流された悪意ある噂は、私の心をボロボロにし、もう一度学校に行く勇気を完全に奪い去っていた。

 毎日、布団の中で丸くなり、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。カーテンを閉め切った部屋は、私の心の闇を映し出しているようだった。



 スマートフォンが震えるたびに、心臓が激しく脈打った。


 秋原くんからのメッセージや電話。


「橘さん、大丈夫?」

「何かあったら、僕に話してほしい」

「無理しなくていいから、返事だけでもほしい」


 彼の優しい言葉が画面に表示されるたび、胸が締め付けられた。


 返事をしたい。彼の声を聞きたい。そう思うのに、指が動かない。

 私は、彼に嫌われることを恐れて、メッセージを開くことも、電話に出ることもできなかった。



 どれくらいの時間が経っただろう。

 ぼんやりと天井を見つめていると、突然、インターホンの音が響き渡った。


 私の体は、びくりと跳ね上がった。

 誰だろう? この時間に訪ねてくる人なんていないはずなのに。


 また、ピンポーンと鳴る。

 応答しないと、また鳴るだろう。


 恐る恐る、ドアスコープを覗き込む。

 そこに立っていたのは、見慣れた制服姿の、秋原くんだった。


 まさか、彼が、私の家まで……?


 驚きと同時に、言いようのない恐怖が私の心を襲った。

 彼に、こんな姿を見られたくない。この、絶望しきった、ボロボロの私を。

 私は、息を潜めて、物音を立てないようにした。


 しかし、秋原くんは諦めなかった。

 コンコン。 ドアがノックされる。


「橘さん! 秋原です! 大丈夫ですか!?」


 彼の声が、ドア越しに聞こえてくる。

 その声は、心配と、どこか焦燥に満ちているように聞こえた。

 何度もノックが繰り返される。


 彼の諦めない気持ちが、私の心を少しずつ揺り動かした。

 このまま、彼を帰してしまっていいのだろうか。

 彼が、私を心配して、わざわざここまで来てくれたのに 。


 私は、震える手で、ゆっくりとドアノブに手をかけた。


 カチャリ、と小さな音がして、ドアが少しだけ開いた。

 隙間から見えた秋原くんの顔は、心配と安堵が入り混じったような表情だった。

 そして、私の顔を見た瞬間、彼の表情は、痛ましげに歪んだ。

 目は赤く腫れ、髪は乱れ、制服のまま、まるで何日も眠っていないかのような私の姿。


「……秋原、くん……?」


 私の声は、か細く、今にも消え入りそうだった。


「橘さん……入るよ。」


 秋原くんは、開いたドアの隙間から、そっと部屋の中へ足を踏み入れてきた。私は、どうしてよいかわからず、思わず、私の部屋に彼を案内した。


「どうして……来たの……?」


 私は、彼から少し距離を取るように後ずさった。親友だと思っていた友達に裏切られた中学時代の記憶が疼く。


「心配したんだ。連絡も取れないし、学校にも来てないから」


 彼の声は、いつもと変わらず優しかった。

 彼は、ゆっくりと、しかし真っ直ぐに私に向き合った。


「橘さん。あの噂のこと、聞いたよ」


 私の体が、びくりと震えた。やはり、知ってしまったのか。

 彼に嫌われる。その恐怖が、私の心を再び凍らせる。


「違う……私、そんなこと……」


 震える声で、私が呟くと、彼は静かに、しかし力強く言った。


「分かってる。橘さんが、そんなことをするはずがない」


 その言葉が、私の耳に届いた瞬間、全身を覆っていた重い鎖が、音を立てて砕け散ったような気がした。

 彼が、信じてくれた。私を、嫌いにならなかった。私の目から、大粒の涙が溢れ出した。


「僕が知ってる橘さんは、どんなに難しい資料にも真剣に向き合い、理解できない部分は徹底的に調べ、決して手を抜かない。あの真摯な姿勢、あの努力、あの聡明さ。そんな橘さんが、不正な手段で成績を得るなんて、ありえない」


 彼の言葉が、私の心の奥深くに染み渡る。


「僕は、橘さんを信じてる。あの噂は、絶対に事実じゃない」

彼がそう言い切ると、私はもう、感情を抑えきれなかった。


「うっ……ううっ……」


 私は、まるで堰を切ったかのように、声を上げて泣き始めた。

 中学時代からの辛さ、高校で再び味わった絶望、そして何よりも秋原くんに嫌われるかもしれないという不安。それら全てが、彼の「信じてる」という一言で、一気に解放された。


 涙が、止めどなく溢れ出てくる。

 彼は、迷わず私の元へ歩み寄り、そっと私を抱きしめてくれた。


「大丈夫だ。大丈夫だから」


 彼の腕の中で、私はさらに激しく泣き続けた。


 彼の肩が、私の涙で濡れていく。

 彼の温かい胸に顔を押し付けると、安心感と、彼への溢れるほどの「好き」という感情が、私の心を満たした。


 今はまだ言葉にできないけれど、この温かさだけは、ずっと感じていたかった。


 どれくらいの時間、そうしていたか分からない。

 ただ、私が泣き止むまで、彼はただ優しく抱きしめ続けてくれた。


 やがて、私の嗚咽が収まり、静かな呼吸だけが聞こえるようになった。


「……秋原くん……ありがとう……」


 か細い声で、私は呟いた。


「僕にできることは、何でもする。橘さんが、また笑顔になれるように。そして、あの噂を、僕たち二人の力で完全に払拭しよう」


 彼は、私を抱きしめたまま、決意を込めて言った。


「頼りないかもしれないけれど、僕だけは、橘さんの味方でいるから。だから、もう一人で苦しまないでほしい」


 私は、彼の胸に顔を押し付けたまま、小さく頷いた。

 彼の温かい腕の中で、私の心に、再び光が灯っていくのを感じた。


 この瞬間から、私の新しい物語が、本当に始まったのだ。

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