第7話 ぎこちない始まり

 橘さんが小さく頷き、「はい」と応じてくれた瞬間、僕の胸には安堵の息が漏れた。同時に、微かな高揚感が広がる。


 まさか、自分が女子に声をかけるなんて。

 しかも、クラスで孤立している橘さんに。



 瑞希のアドバイスがなければ、きっと僕は一生、この一歩を踏み出せなかっただろう。


 僕たちがグループを組むのを見て、莉乃が一瞬、目を見開いたのが視界の端に映った。彼女も、僕と橘さんが組むのは予想外だったのかもしれない。だが、すぐに佐々木が何か話しかけ、莉乃はそちらに顔を向け、また楽しそうに笑い始めた。

 僕の胸の奥に、チクリとした痛みが走る。それでも、もう以前のように心が沈み込むことはなかった。


 放課後、僕たちは図書室でグループワークの打ち合わせをすることになった。

 クラスで最後まで残った僕たち二人だけのグループ。他の生徒たちが楽しげに帰っていく中、二人きりになると、途端に気まずい沈黙が降りてきた。


「あの……橘さん」

「……秋原くん」


 お互いに名前を呼び合う声も、まだどこかぎこちない。橘さんはいつものように静かに机に座り、僕が口を開くのを待っていた。


「えっと、グループワークのテーマだけど……何か、考えてる?」


 僕が尋ねると、橘さんは少し思案してから、小さな声で答えた。


「特に……でも、興味があるのは、最近ニュースでもよく見るAIのこと、とか……」

「AI、か……」


 僕も最近、AIに関する記事をいくつか読んだことがあった。漠然と関心はあったけれど、深く掘り下げたことはない。


「『AI技術の社会インフラ化について』、とか、どうかな……?」


 橘さんが遠慮がちに提案した。


 その言葉に、僕は少し瞠目した。僕が漠然と考えていたことよりも、ずっと具体的で、深掘りしがいのあるテーマだ。


「それ、いいな! 面白いと思う」


 僕がそう言うと、橘さんはほんの少し、胸を撫で下ろしたような表情を見せた。


「じゃあ、とりあえず、今日はテーマを決めたってことで、先生に報告しに行こうか」


 僕が提案すると、橘さんは静かに頷いた。



 先生に報告を済ませ、僕たちは再び図書室に戻った。これから、このテーマについてリサーチを進めることになる。


「どうやって進めていこうか?」


 僕が問いかけると、橘さんは少し考えてから、ノートに何かを書き始めた。


「まずは、AIの歴史とか、基本的な技術について調べて、それから、実際に社会でどう使われているかを事例でまとめる、とか……」


 橘さんは、淀みなく語る。その言葉は論理的で、頭の中にきちんと整理されているのがありありと分かった。僕が漠然と考えていたことを、彼女は具体的なステップに落とし込んでいく。


「すごいな、橘さん。なんか、すごくしっかりしてるんだな」


 僕が素直な感嘆の声を漏らすと、橘さんはわずかに頬を染め、メガネの奥で視線を伏せた。


「そ、そんなことないよ……」

 

 僕たちは、まず基本的な情報収集から始めた。パソコンを使ってインターネットで検索したり、図書室にある関連書籍を読み漁ったり。

 橘さんは、黙々と資料を読み込み、重要な箇所には付箋を貼っていく。その集中力は、僕が今まで見てきた誰よりも際立っていた。そして、難しい専門用語が出てきても、すぐにその意味を調べて理解しようと努める。


「秋原くん、この部分なんですけど、もう少し詳しく調べた方がいいかもしれません」


 時折、橘さんが僕にそう声をかける。その声は小さくても、内容は常に的確だった。


 僕も、数学や理科が得意なこともあって、AIの仕組みやアルゴリズムといった技術的な部分には興味が湧いた。橘さんが調べた文章を読み込み、僕なりに理解を深めていく。

 最初はぎこちなかった僕たちの会話も、資料を読み進め、意見を交わしていくうちに、少しずつ自然になっていった。


「この事例、面白いですね。AIがこんな風に活用されているなんて、知りませんでした」


 橘さんが、目を輝かせながら言う。


「ああ、俺も驚いた。でも、これって、もっと深掘りできそうじゃないか?」


 僕が問いかけると、橘さんは頷き、さらに資料を読み込んでいく。


 橘さんは、いつも大人しいけれど、グループワークになると、その秘めたる知性と真面目さが輝きを放つ。メガネをかけた横顔は真剣そのもので、時折、光がレンズに反射して、彼女の表情を隠す。


 僕は、今まで橘さんのことを「クラスで孤立している大人しい子」としか見ていなかったけれど、彼女には僕がまだ知らない魅力がたくさんあるのかもしれない。

 それは、外見的なことよりも、彼女の持つ内面の輝きだ。


 このグループワークが、僕にとって、そして橘さんにとっても、新しい扉を開く。そんな予感が、僕の胸の奥で少しずつ育っていた。

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