第21話:中原の激震、曹操の撤退戦と智将たちの苦悩

北の平野に響き渡った白馬義従の勝利の雄叫びは、瞬く間に中原へと届き、曹操の陣営をさらなる混乱と恐怖に陥れた。袁紹という大敵を破った趙雲軍の報せは、白馬の陥落で揺らいでいた曹操軍の士気を、地の底まで突き落とすには十分だった。


(まさか、あの袁紹が……趙子龍ごときに……!)


曹操は、報告を受けるたびに顔色を悪くした。怒り、焦燥、そしてかすかな恐怖。複雑な感情が彼の胸を渦巻く。しかし、彼は天下を目指す者。このまま引き下がるわけにはいかない。曹操は即座に軍議を招集した。陣幕に集まった将兵たちの顔には、疲労と、迫りくる見えざる脅威への怯えが色濃く浮かんでいた。


「袁紹は滅びた!次は我らが趙子龍と相見える番だ!全軍、撤退準備にかかれ!奴らを油断させて、一気に叩き潰す!」


曹操は、表向きは反撃の意図を見せつつ、内心では趙雲軍との正面衝突を避けるための撤退戦を画策していた。白馬陥落での損害、軍師たちの機能不全、そして兵士たちの士気の低下。この現状では、圧倒的な兵力を持ってしても、趙雲の奇妙な戦術には勝てないと冷静に判断していたのだ。彼の頭脳は、まだ完全に麻痺してはいなかった。


そして、曹操を支える軍師たちもまた、その苦悩の中でそれぞれの知を絞り出す。


荀彧は、曹操の野心と漢室への忠誠の間で揺れ動きながらも、この状況で総崩れとなることを何よりも恐れた。彼は曹操に進言した。「殿、ここは一旦兵を退き、態勢を立て直すべきかと。無用な犠牲は避けるべきです。」彼の言葉は、もはや以前のように曹操に全面的には届かないが、それでも曹操が撤退を決断する一因となる。荀彧の表情には、この乱世の行く末への深い憂いが刻まれていた。


郭嘉は、病床に伏しながらも、密偵からの報告に耳を傾けていた。趙雲の戦術の「異質さ」は、彼の明晰な頭脳を蝕み続けていた。


(趙子龍……まるで未来を見通すかのような動きをする。彼の『目的』は一体……。このままでは、曹操殿は危うい……!)


彼は、病を押して曹操に献策する。撤退のルート、趙雲軍が追撃してくるであろう地点の予測、そして反撃のためのわずかな布石。彼の疲弊しきった頭脳が、最後の力を絞り出すように思考する。だが、その顔色は、死期が近いことを誰の目にも明らかにした。


程昱は、歯噛みしながらも、冷静に撤退戦の指揮を執っていた。彼の奇策は、趙雲には通用しない。その事実が、彼のプライドを深く傷つけていた。しかし、彼は生来の冷徹さで、兵士たちの混乱を抑え込み、秩序だった撤退を進める。彼は退却路に、追撃する趙雲軍を妨害するための罠や、遅延工作を仕掛けるよう指示を出した。その策は、決して敵を殲滅するものではないが、趙雲軍の追撃をわずかにでも鈍らせるための、彼の意地だった。


曹操軍は、秩序を保ちつつ、中原の奥地へと撤退を開始した。その動きは緩やかで、趙雲軍を油断させようとする意図が透けて見える。


その頃、公孫瓚の陣営では、大勝の余韻に浸る兵士たちとは裏腹に、趙雲の瞳は既に次の戦場へと向けられていた。


(曹操は退いたか……だが、これは終わりではない。むしろ、本当の戦いはこれからだ)


趙雲は公孫瓚に進言し、曹操軍の追撃を開始した。白馬義従の圧倒的な機動力をもってすれば、疲弊した曹操軍を追いつめるのは容易い。しかし、趙雲の狙いは、単なる追撃戦ではない。それは、曹操の疲弊した軍師たちと、残された名将たちの心理をさらに揺さぶり、曹操軍を完全に無力化するための、緻密な心理戦と情報戦の続きだった。


趙雲軍は、曹操軍の退却路を追撃する。曹操が仕掛けた罠や、程昱の遅延工作が白馬義従の進軍をわずかに阻む場面もあったが、趙雲はそれらの策を冷静に見破り、迂回したり、最小限の被害で突破したりする。彼の指揮は、まるで水の流れを読むかのように滑らかで、一切の無駄がない。


追撃の途中、白馬義従の先鋒が、曹操軍の殿軍と接触した。


「弔い合戦だぁー!」


白馬義従の兵士たちが、口々にそう叫びながら、その白い馬体を躍らせ、突撃を開始する。彼らの瞳には、高揚と、敵を打ち破る確かな自信が宿っていた。


対する曹操軍の殿軍は、疲弊しきった顔で剣を構えるが、その手は震えている。


「くそっ、また白馬の亡霊か……!もう戦えん……!」


兵士の一人がそう呟き、恐怖に顔を歪める。士気の差は、もはや歴然だった。趙雲軍の圧倒的な士気と、曹操軍の底なしの絶望。わずかな小競り合いでも、その差は歴然と現れた。


曹操は、退却しながらも、後方からの趙雲軍の動きを警戒していた。


「まさか、ここまで追撃が速いとは……!やはり、趙子龍めはただ者ではない!」


彼の顔には、疲弊と、そして趙雲への理解を超えた畏怖の念が刻まれていく。そして、趙雲の追撃は、曹操軍をさらに消耗させ、兵士たちの間で不満が募り始める。曹操は、地図を広げ、自軍の退却ルートを指でなぞった。


「この先の峡谷……やつらが必ず喰いつく場所だ。そこで、一網打尽にしてくれる……」


彼の瞳の奥には、まだ諦めない執念と、反撃の機会を虎視眈々と狙う冷徹な光が宿っていた。


中原の広大な平野で、天下を二分する二人の英傑による、見えざる心理戦が繰り広げられていた。この追撃戦の先に、曹操軍との決定的な大戦が待っている。それは、趙雲の描く歴史の「必然性」へと繋がる、避けられない戦いとなるだろう。

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