第18話:中原の激震、趙雲、曹操に牙を剥く

北からの「見えざる手」による攻撃は、曹操軍の内部を深く蝕んでいた。各地の陣営では、兵糧庫の火災、夜間の物資紛失、理由不明の兵士の脱走が日常と化していた。それらは単なる偶発的な事故ではなかった。趙雲が放った密偵たちの巧妙な工作は、曹操軍の信頼関係を根底から揺るがし、兵士たちの間に深い疑心暗鬼の種を蒔いていたのだ。


「貴様、本当に兵糧を運んだのか!?なぜ、これほどまでに減っているのだ!盗んだのは貴様であろう!」


「俺は知らない!夜中に不審な物音がしたと思ったら、次の日には消えていたんだ!もしかしたら、隣の奴が……」


各地の兵営では、些細なことから兵士同士の諍いが頻発し、時にはそれが流血沙汰にまで発展することもあった。夜中に響く不審な物音に、兵士たちは怯え、互いの顔色を窺い合う。誰もが、いつ、どこで「見えない敵」に襲われるか分からないという恐怖に苛まれていた。陣営全体を、重苦しい空気が支配していた。


曹操は、これらの報告を受けるたびに、怒りと焦燥を募らせていた。彼の顔には、連日の不眠と苛立ちが深く刻まれている。夜半過ぎまで地図を広げ、唸り声を上げる彼の姿に、側近たちも怯えるばかりだった。


「何者かが、我らの内部を攪乱している……!必ずや捕らえよ!一人残らず、その首を刎ねてくれるわ!」


曹操の命を受けた夏侯惇や曹仁といった将軍たちは、厳重な警戒態勢を敷き、不審な動きをする者を徹底的に取り締まった。巡回する兵士の数は倍に増え、夜間には火の見張りが増設される。しかし、趙雲の密偵たちは、まるで水のように曹操軍の組織に深く浸透しており、その正体を掴むことは困難を極めた。やがて、焦りから、些細なことで内通者と決めつけられ、無実の兵士が処刑される事態まで発生した。その光景は、兵士たちの間にさらなる恐怖と不信感を植え付け、曹操軍の内部崩壊を加速させていった。処刑台から響く悲鳴と、血の匂いが、兵営の空気と混じり合った。


「我らは、一体何と戦っているのだ……?見えぬ敵に、我らは食い殺されるのか……」


兵士たちの間から、そんな絶望的な囁きが漏れるようになる。彼らの瞳には、もはや戦意の光はなく、ただ怯えと諦めだけが宿っていた。


その頃、趙雲は公孫瓚の元で、中原進出の準備を最終段階へと進めていた。彼の指揮下にある白馬義従は、袁紹軍との激戦を経て、さらにその練度を高めていた。兵士たちの顔には、趙雲への絶対的な信頼と、来るべき戦いへの高揚感が満ちている。彼らは、自分たちが趙雲の指揮の下であれば、どんな困難も乗り越えられると信じていた。


「曹操軍は、既に内部から崩壊しつつあります。士気は地に落ち、指揮系統は乱れている。今こそ、我らが動く時です」


趙雲は公孫瓚に進言した。彼の言葉には、確かな勝利への予感と、一切の迷いがない。公孫瓚は、趙雲の言葉に深く頷いた。彼の目には、趙雲がもたらす「必然性」が、はっきりと見えていた。彼の胸には、趙雲への絶大な信頼と、袁紹を打ち破ったことで得た確かな自信が満ちていた。


そして、ついにその時が来た。


趙雲は、曹操軍の最前線に位置する要衝、白馬(はくば)への攻撃を命じた。白馬は、曹操軍の兵站の要であり、ここを落とせば、曹操軍の補給は完全に途絶する。しかし、白馬は堅固な城塞であり、曹操軍の精鋭部隊が守りを固めていた。城壁には、ずらりと弓兵が並び、その城門は固く閉ざされている。


白馬への攻撃は、趙雲が中原で初めて仕掛ける本格的な実戦的布石となる。彼は、白馬義従の一部を囮として城門に突撃させ、敵の注意を引きつけた。その裏で、別働隊を密かに城の裏手へと迂回させ、兵站を狙う。それは、まさに精密に計算された、無駄のない動きだった。


白馬の城門前では、白馬義従の騎兵たちが、まるで嵐のように曹操軍の防衛線を揺さぶっていた。蹄の轟音が大地を揺らし、矢が雨のように降り注ぐ中を、彼らは恐れることなく突進する。曹操軍の兵士たちは、その圧倒的な突撃力に驚きながらも、必死に防戦する。しかし、その混乱の最中、城の裏手で、趙雲の狙い通りに火の手が上がった。兵糧庫が炎上し、積み上げられた物資が次々と燃え尽きていく。


「兵糧庫が!兵糧庫が燃えているぞ!何事だ!?」


城内に混乱が広がる。兵士たちは、前線と後方の両方から襲いかかる見えない敵に、恐怖と絶望を感じた。趙雲の策は、常に敵の「違和感」と「感情の膨張」を突き、思考を停止させることに長けていた。火災の煙が空に立ち上り、城全体を不気味な影で包み込んだ。


白馬義従は、この機を逃さず、城門への総攻撃を開始した。内部の混乱と、兵糧庫の炎上という二重の打撃を受けた曹操軍は、もはや組織的な抵抗を続けることができなかった。城門は破られ、白馬義従の騎兵たちが、怒涛の勢いで城内へと雪崩れ込んでいく。城壁の上からは、絶望の悲鳴が聞こえた。


この局地戦は、趙雲軍の圧倒的な勝利に終わった。白馬は陥落し、曹操軍は多大な損害を被った。城内には、勝利の歓声と、焼け焦げた匂いだけが残されていた。


この報せは、瞬く間に曹操の本陣に届いた。


「白馬が……白馬が落ちただと!?」


曹操は、その報告に顔を蒼白にしていた。彼の軍師たちは、この事態を予測できなかったことに、深い無力感に苛まれていた。郭嘉は、疲弊しきった顔で頭を抱え、程昱は唇を噛み締めていた。荀彧は、静かに目を閉じ、曹操の覇道が、漢の道を外れつつあることを改めて悟っていた。


曹操は、もはや冷静ではいられなかった。彼の知る戦の常識が、趙雲という存在によって次々と覆されていく。その怒りは、天を衝くほどだった。


「趙子龍……!貴様、ただではおかんぞ!必ずや、貴様の首をこの手で刎ねてくれる!」


曹操は、怒りに燃える瞳で、北の空を睨みつけた。彼の胸には、この「見えざる敵」への激しい憎悪と、必ずや逆襲を果たすという、強い決意が芽生えていた。


中原の平野に、新たな戦雲が立ち込める。白馬の陥落は、ただの局地戦の勝利ではない。それは、曹操と趙雲、二人の天下を争う英傑による、本格的な「中原大決戦」の前哨戦が、ついに本格化したことを告げる、明確な狼煙だった。

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