第16話:北方の平定と趙雲の内なる変化
袁紹軍の完全崩壊は、北の平野に衝撃的な静寂をもたらした。数日に及んだ激戦が終わり、公孫瓚軍の勝利の雄叫びだけが、広大な大地に響き渡る。夜空には、燃え尽きた陣営の残り火が、赤々と瞬いていた。疲れ果てた兵士たちが、勝利の喜びと安堵の入り混じった表情で、互いの肩を叩き合っていた。彼らの顔には、この大戦を生き抜いた誇りと、これから訪れるであろう平和への淡い期待が浮かんでいる。
公孫瓚は、その顔に深い満足感を浮かべ、趙雲を真っ直ぐに見つめた。彼の表情は、長年抱き続けてきた袁紹への恨みが晴れたこと、そして天下統一への夢が一歩近づいたという確信に満ちている。公孫瓚は、自らの勝利が、若き副将の「智」によってもたらされたことを深く理解していた。
「子龍よ……見事であった。貴様の策なくして、この大勝はあり得なかった。袁紹を討ち果たした今、北方は名実ともに我らのものだ!」
公孫瓚の言葉には、興奮と、そして趙雲への絶対的な信頼が込められていた。彼の脳裏には、趙雲がもたらした奇跡のような馬具、そして兵站と情報戦を駆使した常識外れの戦術が鮮明に蘇っていた。
趙雲は静かに頷いた。彼の胸には、安堵と共に、複雑な感情が去来していた。袁紹という強大な敵を打ち破った達成感。しかし、それは、彼が史実を大きく改変した証でもあった。彼の行動が、無数の人々の運命を、これまでとは異なる方向へと導いている。その事実の重みが、彼の肩にずしりと乗しかかる。彼は、夜空に瞬く星々を見上げ、その一つ一つが、自分の手によって変えられた人々の命であるかのように感じていた。
戦後の処理は迅速に進められた。袁紹軍の残存兵は投降し、各地の豪族たちは次々と公孫瓚への服従を誓った。中には、袁紹への忠誠を貫こうとする者もいたが、白馬義従の圧倒的な武力と、趙雲の交渉術の前には、抵抗する術を持たなかった。袁紹が支配していた広大な領地は、あっという間に公孫瓚の傘下へと収められる。北方は、名実ともに公孫瓚の支配するところとなった。広大な平野には、公孫瓚の旗がはためき、新たな秩序が生まれつつあった。
この劇的な変化は、中原の諸侯にも大きな衝撃を与えた。
「まさか、あの袁紹が、公孫瓚に敗れるとは……信じられぬ!」
「しかも、その背後には、若き将、趙子龍の才があるという……あれは、もはや人の為せる技ではない……」
各地で趙雲の名が囁かれ始め、彼の「異質」な戦術への関心と警戒が急速に高まっていく。まるで疫病のように、趙雲への畏怖の念が諸侯の間に広がっていった。
特に、曹操の元には、袁紹軍の崩壊の詳細な報告が届いていた。軍議の席は重苦しい空気に包まれている。荀彧、郭嘉、程昱といった軍師たちは、趙雲軍の動きの「不可解さ」に、さらに深い困惑を深めていた。彼らは、自らが疲弊し、その知略が十全に発揮できない状況で、この新たな脅威が台頭したことに、焦りを隠せない。郭嘉は咳き込みながらも戦況図を睨み、荀彧は静かに筆を止め、程昱は奥歯を噛み締めていた。彼らの顔には、趙雲の「見えざる手」によって翻弄された、屈辱と敗北の影が色濃く浮かんでいた。曹操自身もまた、北方のこの変事に対し、警戒の目を強めていた。彼の眉間には深い皺が刻まれている。
趙雲は、公孫瓚に北方の統治と、各地の豪族への対応を任せつつ、自身の指揮下にある情報部隊をさらに強化した。彼の狙いは、北方の安定だけでなく、周辺諸侯、特に曹操の動向を正確に把握することにある。新たな密偵が中原へと送り込まれ、その影は、曹操の本陣の深部にまで伸びていく。
(袁紹は退場した。これで北方は安定する。次は……)
夜の帳が降りる中、趙雲は自室で一枚の大きな地図を広げた。蝋燭の微かな光が、地図上の勢力図をぼんやりと照らし出す。彼の指が、公孫瓚の領地から中原へと伸びる。曹操の勢力圏、そしてその先に広がる天下の全て。
彼の心は、勝利の余韻に浸る間もなく、既に次の戦略へと向かっていた。彼の知性は、常に最適な道筋を追求する。しかし、その知性の奥底には、彼自身の人間的な感情が隠されていた。
(俺の知る史実では、この後も乱世は長く続く。無数の民が苦しみ、多くの英傑が散っていく……そんな未来は、もう見たくない)
彼の瞳に、遠い過去の、そしてまだ見ぬ未来の戦場の光景が重なる。燃え盛る都の炎、飢えに苦しむ民の姿、そして無念の死を遂げた英傑たちの顔。それは、彼が歴史を変えようと決意した、最も根本的な理由だった。その思いが、彼の胸を熱くする。
「乱世を、終わらせる……」
その呟きは、誰に聞かせるものでもなく、彼自身の魂に誓う言葉だった。彼の小さな拳が、固く握りしめられる。
公孫瓚の元で、まだ誰も知らぬ、真の天下統一への次の一手が、静かに練られ始めていた。
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