第12話:軍師無力化への「布石」と「違和感」の始まり
趙雲の軍制改革は、公孫瓚の陣営を着実に変貌させていた。朝早くから練兵場に響く、兵士たちの力強い掛け声。それは、新しい馬具と訓練法に慣れた彼らが、日を追うごとに洗練された動きを見せている証だった。鉄鐙と改良鞍を装備した騎兵隊は、かつての白馬義従の精強さを遥かに凌駕し、その練度と機動力は、もはやこの乱世の常識では測り知れないものとなっていた。一糸乱れぬ隊列で大地を駆け抜ける馬群の蹄の音は、まるで未来の戦場を予感させるような、力強い響きを伴っていた。
(この軍勢ならば、中原も攻略できる。だが、その前に……)
趙雲の意識は、常に中原にいる曹操の陣営へと向けられていた。彼は夜な夜な、公孫瓚の耳にも入らぬよう、密かに組織した情報網から届く報告書に目を通す。蝋燭の微かな光の下で広げられた竹簡には、曹操の勢力圏で、趙雲が仕掛けた「布石」が、静かに、しかし確実に波紋を広げ始めている様子が記されていた。それは、まるで水面に落とされた一滴の雫が、やがて巨大な渦となるかのようだった。
まず、荀彧の動向だ。趙雲が流した「曹操が漢室をないがしろにし、帝位を狙っている」という噂は、巧妙な経路を辿り、荀彧の耳にも届いていた。彼は、漢室復興を願う揺るぎない忠臣であり、曹操への絶対的な忠誠心と、その主の行動との間に生じ始めた、見えない亀裂に微かな「違和感」と、胸の奥底での「苦悩」を感じ始めていた。書斎の机には、漢の歴代皇帝の記録が記された竹簡が山と積まれている。彼は夜遅くまでそれを読み返し、眉間に深い皺を刻んだ。筆を走らせていた手が、ふと止まる。彼は顔を上げ、遠く揺れる灯火をじっと見つめていた。曹操が自分を重用し、次々と功績を上げるほどに、彼の胸の痛みは増していく。漢の衰退を嘆き、曹操に希望を見出したはずの心に、不穏な影が差し込み始めていた。その憂いの色が、彼の顔から消えることはなかった。
次に、郭嘉だ。彼は曹操が最も信頼する天才軍師であり、その慧眼と先見の明は並ぶ者がないと称されていた。しかし、趙雲が意図的に仕掛けた、予測不能な小規模な奇襲や、囮を使った陽動は、曹操軍に大きな損害を与えるものではなかったが、郭嘉の天才的な頭脳を常にフル回転させ、休む間もない思考を強いていた。
(なぜだ……なぜ、これほどまでにこちらの意図を見透かすような動きをする? そして、この戦術には、従来の定石にはない『異質さ』を感じる……まるで、数百年先の未来を見通しているかのような、不気味な感覚だ……)
郭嘉は、連日の思考と、常に気を張る生活の中で、心身を著しく疲弊させていった。彼の顔色は日に日に悪くなり、目は窪み、深い隈が刻まれていた。病弱な体質が、この極度の消耗に耐えきれなくなっていたのだ。側近は彼の健康を深く憂慮し、何度も休養を進言するが、郭嘉は首を縦に振らない。その疲労は、彼の明晰な思考力を確実に蝕み始めていた。夜中には激しい咳き込みが陣幕から漏れ、その体調が悪化していることを周囲に悟らせる。彼の頭脳は、趙雲の放つ「違和感」によって、常に答えの出ない迷宮を彷徨っているかのようだった。その「なぜ」という問いが、彼の精神を深く蝕んでいく。
そして、程昱だ。彼は奇策の達人であり、冷徹な判断力を持つ。趙雲軍が仕掛けてくる戦術の報告を受けるたび、眉間に深い皺を刻んでいた。程昱が立てた策は、これまで数々の敵を打ち破ってきた。しかし、趙雲軍の動きは、彼の奇策がことごとく不発に終わるか、あるいは逆に彼自身が罠に嵌ってしまうような、「不可解な」ものだった。
「馬鹿な……この程昱の読みを、これほどまでに外す者があるとは……!」
彼は、自らの策が読まれていることに対し、強い「苛立ち」と、理解できないことへの「困惑」を隠しきれなかった。冷徹沈着な彼の内面に、静かな、しかし燃えるような怒りが募っていく。部下たちも、程昱のいつになく険しい表情を見て、ただ静かに控えるしかなかった。彼は夜遅くまで、何度も戦況図を広げては唸り、竹簡を叩きつけるようにして思考を繰り返す。しかし、その答えは、彼が持つこの時代の知識では、決して導き出せないものだった。彼の脳裏には、趙雲の、まるで人間離れしたような動きをする騎兵隊の姿が焼き付いていた。それは、理解を超えた恐怖のようだった。程昱の前に置かれた補給路や渡河地点には、既に趙雲の密偵が潜んでいた。彼の策が動き出す前に、情報は必ず趙雲の手に届く仕組みが整えられていた。
曹操の陣営は、外見上は強固に見える。膨大な兵力、経験豊富な将軍たち。しかし、趙雲が仕掛けた「布石」は、水面下で確実に彼らの「智」の柱に揺さぶりをかけ始めていた。軍師たちの間に生じ始めた「違和感」や「困惑」、そして「疲弊」は、やがて曹操の指揮系統に大きな「歪み」を生み出すだろう。それは、まるで内部からゆっくりと侵食していく毒のように、彼らの力を静かに削いでいく。
(曹操軍の軍師たちよ。君たちの「智」は確かに恐ろしい。だが、俺の「智」は、君たちの時代とは異なる場所から来ている。そして、この戦いは、俺が望む未来へと続く「確かな道筋」なのだ)
趙雲は、遠く中原の地へと思いを馳せた。夜空には星が瞬き、まるでこの乱世の行く末を静かに見守っているかのようだ。彼の掌で、一枚の竹簡が握りしめられる。それは、曹操軍の細かな動きを記した報告書だった。
まだ誰も知らぬ、水面下で始まった曹操軍の「智」の崩壊への序曲が、静かに、そして確実に奏でられ始めていた。
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