三、幼馴染の距離

 山の夜は底冷えし、吐く息が焚き火の明かりに淡く白く散った。

 三人は獣道から少し外れた窪地に腰を下ろし、小鍋を火にかけている。澄真が持ってきたのは、携帯用に固めた乾燥味噌と、小さな鍋だけだ。


 狐面を外した澄真の横顔を、炎が静かに照らしていた。

 翠の瞳が火の赤をひとしずく映して揺れる。そのささやかな光景に、魁は薪を組みながらふと動きを止める。一瞬だけ、呼吸が遅れた。

 悟られまいと、彼はすぐに視線を鍋へ戻して火の具合を確かめる。


 澄真は味噌を溶かしながら、小さく鼻歌を歌っている。その無邪気な調子は、戦の緊張をほどくようだ。


 谷河内は疲れ切った表情で、半分寝転がるように座り込みながら鍋を覗く。


「腹減った……。澄真、まだかー……?」

「ん。もういいかな」

「味噌汁の匂いなんて、久々だな……。いいもん持ってきたな、お前」

「兵糧丸だけじゃ飽きるからね」


 澄真が穏やかに笑ったとき、鍋の中で“ちゃぽん”と何かが揺れた。

 湯気の向こうで、魁と谷河内が同時に眉を寄せる。


 小さくて笠の柔らかそうな…“正体不明”のキノコ。


 まず谷河内が、ためらいがちに口を開いた。


「……澄真。このキノコ、どこから持ってきたんだ?」

「さっき歩いてた時に生えてた。色んなのあったけど、これ、笠ぷにぷにで美味しそうだったから」


 その言葉の“無防備さ”に、谷河内は額を押さえた。


「……美味しそう、だけで鍋に入れたのかよ……」


 彼の声は、ただ心底疲れたように響く。


 魁も鍋を覗き込み、眉間を指で押さえて絶望的に唸った。


「……澄真。お前、去年の春、笑い茸を煮て食って──」

「あー!」


 澄真の顔がぱあっと明るくなる。


「笑って笑って止まらなくて、腹が痛くなって、吐いて、失神したやつ!……なぁ、あれって、いつだったっけ?」

「……今、言ったろう。去年の春だと」


 魁は肩を落とし、深く深く息を吐いた。


 谷河内も呆れたように湯気の向こうの澄真を見上げる。


「お前は都合の悪いことだけ綺麗に忘れるんだな……」

「あは、便利だろ」

「便利じゃねぇよ!これも毒だったらどうすんだよ!俺たち全滅だぞ!」

「澄真。山で拾うものは、毒かどうか分からないものが多い。判別できない物は鍋に入れるな。……頼むから」

「え、うん……? でも匂い変じゃないし、触った感じも平気だったよ」


 無邪気な返答に、二人とも言葉を失う。

 この男が、戦場では誰より冷静で鋭いのが信じられない。


「まぁまぁ、俺が先に食べて平気だったら大丈夫ということで」

「違う!そういう問題じゃ──」


 魁の怒声が終わるより早く、澄真はさりげなく椀を取り、汁をひと口、すすった。


 焚き火の音まで止まった気がした。


 三秒。

 五秒。

 十秒……。


 澄真は椀を置き、ほっと息をつく。


「……おいし」


 谷河内は力が抜けたように仰向けに転がり、頭を抱えた。


「ダメだ…。こいつといると寿命が縮む…」


 魁は鍋の中身を見つめ、静かに首を振る。


「……頼むから、もう少し慎重になってくれ。お前一人だけの体じゃないんだ」

「え?」

「……俺たちも、一緒にいる」


 澄真はぽかんと目を瞬かせ、次の瞬間、ふわりと笑った。

 焚き火の光が、その笑顔に柔らかく揺れる。


「そっか。じゃあ次は、もっとじっくり選ぶよ」

「次があるのかよ……」


 谷河内が苦笑混じりに呟くと、魁もわずかに口元を緩めた。


 澄真は木椀を差し出しながら、にこにこしたままだ。


「はい。二人とも、どうぞ」

「……はあ。食うけどよ」

「……俺が先に味を見る」


 夜風が火を揺らし、三人の影をひとつに重ねていった。

 戦の帰り道とは思えない、静かで緩やかな時間だった。



*******



  森はすっかり冷え込み、焚き火の赤い残り火だけが、夜気の底でゆらゆらと揺れていた。

 魁は見張りの番で、闇の奥へ耳を澄ましていたが、かすかな足音に気づく。


 猫が落ち葉を踏むような細い気配。


「魁」と、その気配から聞き慣れた声がした。


 魁が振り向くと、栗色の髪に寝癖をつけたままの澄真が、半分ほどしか開いていない目をこすりながら近づいてくる。


「……起きたのか」

「ん。──見張り、とっくに俺の番。どうして起こさなかったの?」


 澄真はとことこ歩いてきて、当然のように魁の隣に腰を下ろす。


「起こそうとしたが、間抜け面でよく寝ていたからな」

「それでも起こしてよ。……同い年なんだから、子供扱いするなよ」

「子供扱いではなく、“ぐっすり寝ていた”と言っている」

「同じだよ……。……あ、飴ある?」

「ない」

「そっかー……」


 澄真は木の幹にぽてんと背中を預け、月を見上げた。

 まぶしそうに、でも楽しげに目を細める。


「夢の中ですっごく大きな猫が、俺の頭に乗ってきてさ。重くて起きた」


 魁は小さく噴き出す。


「お前らしい夢だな」

「重いけど可愛かった。まんまるで……あ、でも頭の上は困るよ」

「猫に言ってくれ」


 澄真はくすくす笑い、眠気の残る声で続けた。


「──今日の任務でさ、」

「ん?」

「魁の剣、好きだなって思った。綺麗で、まっすぐで……“ぴたっ”て決まるの。今日もさ、見てて気持ちよかった」


 魁は短く息をついた。


「……そうか」

「俺のは、こう……狐みたいってよく言われる。ひょいひょいしてるって。俺、ひょいひょいかな」

「間違ってないな」

「やっぱりかー」


 澄真は笑って、少し体勢を整えた。


「そういえば、納屋の角を飛んだ時…」

「お前が勝手に突っ走ったところだな」

「勝手じゃないよ。ちゃんと考えたの。裏から二人来てたろ?」

「気づいていたなら、なおさら声をかけろ」

「声出したら気づかれるだろ。飛び出した方が早いし」

「お前は無鉄砲が過ぎる」

「魁だって、考え無しに人の前に立つことあるだろ」

「……」


 言い淀む魁に、澄真は笑う。

 魁はため息をついたが、ほんのわずかに口元がゆるんだ。


「でもさ、今日の魁の動き、よかったなぁ。俺が納屋のところで仕掛けた後、絶対反対側に回ってくれると思ってたんだよ」

「お前がそう動くと読めていたからだ」

「だよね!俺も同じだよ。昔から。魁がパって動くと、“あ、これ俺の出番だな”ってわかるんだよ」


 澄真は空中に戦いの軌跡を描くように、手をふわりと動かした。


「俺、魁と組むの楽しいよ。言わなくても通じるし。なんだか……安心する」

「安心、ね」

「うん。俺が変な動きしても、魁はすぐに合わせてくれるだろ」

「勝手な想像だ」

「違うの?」

「……違わないが」


 澄真は嬉しそうにニコッと笑った。


「じゃあさ、次の任務も魁と組む」

「勝手に決めるな」

「えー、だって魁も俺と組むの好きでしょ?」

「そんなことは言ってない」

「言わなくてもわかるよ?」

「わかるわけない」

「わかるのー」


 澄真は笑いながら立ち上がり、伸びをした。途端、ふら、と身体が揺れる。


「おい」

「だいじょーぶだって」


 全然大丈夫そうではないが、魁は余計なことは言わなかった。

 言えば言うほど、澄真はへらっと笑うだけだと知っているからだ。


「じゃ、見張り交代。起きてるし」

「起きたばかりの顔で言うな」

「うん。でも起きてるよ。ほら、ちゃんと立ってるし」


 月明かりの中、ほんの一瞬だけ澄真の横顔を見つめる。


「……頼む」

「任せて!」


 澄真は胸を張って、夜の見張りに立った。


 幼馴染みの距離は、近すぎず、遠すぎず。

 けれど確かに“ここにある”と、夜風だけが静かに知っていた。



******



 夜の気配がようやく薄れ、森の端が白み始めたころだった。


 焚き火はすでに消え、冷えた空気の中で、澄真は木に背を預けたまま──

 緩みきった顔で、すやぁ……と実に気持ちよさそうに眠っていた。


 静かな寝息。

 頬はゆるゆる。

 口元にはうっすら笑みさえ浮かんでいる。


 その光景を、魁と谷河内が揃って覗き込んでいた。


「……置いて行くか?」


 谷河内が本気とも冗談ともつかない声でつぶやく。


 魁は額に手を当て、深く長い溜息を吐いた。


「……いや、こんな所で一人にすれば迷子になる。そうなれば捜索の仕事が増えるだけだ」

「だよなぁ……ったく。敵襲が無かったからよかったものの……」


 谷河内はぼやきつつ、澄真の肩をがしっと掴んだ。


「おいこら澄真! 起きろ!!」


 容赦なく揺さぶる。


「ん、んぁ……?」


 澄真の翠の瞳がきょろりと開き、次の瞬間──


「雷!?」


 とんでもない方向に飛び起きた。


「違ぇよ!!」


 言うが早いか、谷河内の手刀が澄真の頭に落ちる。


「ぎゃん!!」

「朝だよバカ!!」

「え……? なんで!? 今まで夜だったのに!」

「お前が寝ちまったからだよ!」

「ね、寝てないよ?」

「分かりきった嘘つくなバカ!!」

「さっきから何回バカって言うの!?」


 森の朝に、二人の声が妙に明るく響いた。


 魁はふたりのやり取りを見ながら、もう一度だけ、静かに溜息をついた。


 ──これも、いつもの朝だ。

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