第3話「止まった世界で、動き出す心臓」

 三秒。

 世界はまた、リセットされた。


 「やっと見つけた」

 夜々(やや)ちゃんは、わたしに向かって微笑んだ。白いワンピースは雨に濡れて、髪が額に張り付いている。手には、壊れた目覚まし時計。

 それは、わたしが何度も見てきた、最初の三秒だった。


 だけど、もう同じじゃない。

 わたしは、彼女がこの三秒のループの中で、わたしの存在を「見つけた」ということを知っている。

 そして、わたしは知っている。わたしの手のひらに、すでにその目覚まし時計があることを。


 わたしは、何も言わなかった。ただ、夜々ちゃんの目を見つめ返した。

 夜々ちゃんの笑顔が、少しだけ、固まった。

 「驚いてる? そりゃそうだよね」

 彼女は、いつものように肩をすくめた。だけど、その肩の動きが、ほんの少し、ぎこちなかった。

 「私は天宮夜々。あなたも、この世界が壊れてるって気づいてるんでしょ?」

 その言葉も、声のトーンも、いつもと同じ。だけど、彼女の瞳の奥には、今までとは違う、探るような光が宿っていた。


 わたしは、ゆっくりと頷いた。

 「霜月環(しもつき たまき)」

 わたしの声は、雨音に吸い込まれていくようだった。

 夜々ちゃんは、にこりと笑う。その笑顔は、相変わらず少し怖かった。何もかも見透かされているような、そんな気がしたから。


 「私たち、同じみたいだね」

 彼女は、そう言った。だけど、その言葉には、どこか確認するような響きがあった。

 「この世界、いつからこんなことになってるんだろうね」

 夜々ちゃんは、ホームの向こう側を眺める。止まった時間の中で、同じ動きを繰り返す人々。スマホをいじる男子学生の指の動きまで、寸分違わず同じだ。


 「わたしは……三日前から」

 わたしは、答えた。

 「私は……もっと前からかな」

 夜々ちゃんは、目を伏せた。その仕草の後に続く言葉を、わたしは知っている。


 「まあ、いいや」

 夜々ちゃんは、あっけらかんと言った。

 「どうせ、この世界、すぐに終わるから」

 わたしの心臓が、少しだけ跳ねた。もう慣れてしまったはずの言葉なのに、なぜだろう。

 「終わる……って?」

 わたしは、問い返した。

 「だって、この世界、もう壊れてるでしょ? あとは、消えるだけだよ」

 彼女は、淡々と続ける。

 「でもね、環ちゃん。消える前に、一つだけ、やることがあるんだ」


 ここで、彼女はわたしの手のひらに、壊れた目覚まし時計を乗せようとする。

 わたしは、その手を避けた。そして、背中に隠していた目覚まし時計を、そっと彼女の前に差し出した。

 夜々ちゃんの目が、驚きに大きく見開かれる。彼女の表情が、はっきりと変わった。それは、このループの中で初めて見る、感情のこもった表情だった。

 「どうして……」

 彼女の声が、震えている。

 「どうして、持ってるの? これは、わたしが初めてあなたに渡すものなのに」


 「この三秒、何十回も繰り返したから」

 わたしは、まっすぐに彼女の目を見て答えた。

 夜々ちゃんの顔から、すっと表情が消えた。まるで、世界の時間が止まったみたいに。いや、世界はすでに止まっている。止まっていたのは、彼女の心だったのかもしれない。

 「あなた、気づいてるの? わたしが何をしようとしているか、何を言おうとしているか」

 その声は、震えが止まらない。

 「うん。知ってる」

 わたしは、深く頷いた。


 「電車が来る直前に、あなたは私に、こう言うんでしょ?」

 わたしは、彼女が何度も繰り返した言葉を、もう一度、口にした。

 「『この世界を、終わらせる方法。それはね──誰かの、恋の代償なの』って」


 夜々ちゃんの瞳から、光が消えた。だけど、すぐにその光は、まるで星が瞬くように、強く、激しく輝き始めた。

 彼女の唇が、ゆっくりと動く。

 「……じゃあ、その『恋の代償』ってのが、誰の恋のことか、あなたは知ってる?」

 その問いに、わたしの心臓が、大きく、痛いほど跳ねた。

 電車が、轟音と共にホームに入ってくる。風が吹き荒れる。

 わたしは、答えられなかった。

 電車は、いつもの場所で止まり、ドアが開く。


 そして、また三秒。

 全てが、リセットされる。


 広告が元に戻る。鳩がもう一度、羽ばたく。スマホをいじっていた男子学生が、また同じLINEを打つ。

 わたしの手のひらの上には、壊れた目覚まし時計。

 そして、目の前には、白いワンピースを着た夜々ちゃんが、再び立っていた。

 「やっと見つけた」

 彼女はそう言って、笑った。


 今回の彼女の笑顔は、今までとは違っていた。

 それは、初めて見るような、純粋な驚きと、それから、何かを悟ったような、寂しさの混じった笑顔だった。

 そして、わたしは知っていた。この三秒のループの中で、彼女がわたしの存在を、何度も何度も「見つけた」ということを。

 そして、わたしは、彼女がわたしを見つけるたびに、わたしの心も、ほんの少しずつ、動き出していることを知ってしまった。

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