第2話「彼女は三秒先の未来を知っていた」

わたしは、手のひらを見つめた。そこには、壊れた目覚まし時計がある。秒針は止まったままで、時間は動いていない。

 この目覚まし時計を、天宮夜々(あまみや やや)がわたしの手に乗せたのは、ついさっきのことだ。いや、三秒前のこと。でも、それはもう、何十回も、何百回も繰り返された三秒の出来事だった。


 「やっと見つけた」

 目の前で、夜々ちゃんがまた、そう言って微笑んだ。白いワンピースは雨に濡れて、髪は額に張り付いている。

 わたしは、手に持った目覚まし時計を、そっと背中に隠した。この時計だけが、三秒のループを抜け出した唯一のもの。わたしと、彼女以外の、唯一の真実。


 「驚いてる? そりゃそうだよね」

 夜々ちゃんは、少しだけ肩をすくめてみせた。その仕草すら、もう何十回と見てきた。

 「私は天宮夜々。あなたも、この世界が壊れてるって気づいてるんでしょ?」

 彼女は、まっすぐにわたしを見つめてくる。その瞳の奥には、わたしと同じ、そしてわたし以上の、途方もない孤独が隠されているような気がした。


 わたしは、黙って頷いた。何度同じことを繰り返しても、この瞬間だけは、いつも緊張した。

 「霜月環(しもつき たまき)」

 自分の名前を口にするたび、それが、この世界で初めて発する言葉のように感じられた。


 「環ちゃん、だね」

 夜々ちゃんは、にこりと笑う。その笑顔は、相変わらず少し怖かった。何もかも見透かされているような、そんな気がしたから。

 「私たち、同じみたいだね」

 この言葉も、耳にタコができるほど聞いた。それでも、毎回、心が震えるのはなぜだろう。

 同じ。彼女とわたし。この壊れた世界で、同じ時を生きている。


 「この世界、いつからこんなことになってるんだろうね」

 夜々ちゃんは、ホームの向こう側を眺める。電光掲示板の時刻表示は、止まらない。止まっているのは、世界。そして、そこにいる人々。男子学生は、相変わらず同じLINEを打っている。


 「わたしは……三日前から」

 わたしは、そう答えた。

 「私は……もっと前からかな」

 彼女は、少しだけ目を伏せた。その一瞬の仕草が、どれほどの時間を彼女がこのループの中で過ごしてきたのかを物語っているようだった。


 「まあ、いいや」

 夜々ちゃんは、あっけらかんと言った。

 「どうせ、この世界、すぐに終わるから」

 その言葉を聞くたび、心臓が大きく跳ねる。まるで、鼓動が三秒のループから抜け出して、先走っているみたいに。

 「終わる……って?」

 わたしは、問い返す。

 「だって、この世界、もう壊れてるでしょ? あとは、消えるだけだよ」

 彼女は、まるで当たり前のことを言うように続ける。

 「でもね、環ちゃん。消える前に、一つだけ、やることがあるんだ」


 そこで、夜々ちゃんは、わたしの手のひらに、そっと何かを乗せようとする。

 わたしは、その手を避けた。彼女が、壊れた目覚まし時計を渡そうとしていることを知っていたから。何度も経験したこのループの中で、わたしはすでに、その時計を持っている。

 夜々ちゃんの目が、わずかに見開かれた。初めて見る、彼女の予想外の表情。

 「なんで……?」

 彼女は、戸惑ったように呟いた。


 「だって、持ってるから」

 わたしは、背中に隠していた目覚まし時計を、彼女の前に差し出した。

 夜々ちゃんの目が、さらに大きく見開かれる。驚き、困惑、そして──少しの喜び。

 「どうして……」

 彼女は、わたしと、わたしの手のひらの上の目覚まし時計を、交互に見た。

 「どうして、持ってるの? これは、わたしが初めてあなたに渡すものなのに」


 わたしは、息を吸い込んだ。ここで、三秒のループを壊すことができるかもしれない。

 「この三秒、何十回も繰り返したから」

 夜々ちゃんの顔から、すっと表情が消えた。

 「あなた、気づいてるの? わたしが何をしようとしているか、何を言おうとしているか」

 その声は、震えていた。

 「うん。知ってる」

 わたしは、まっすぐに彼女の目を見て答えた。


 「電車が来る直前に、あなたは私に、こう言うんでしょ?」

 わたしは、彼女が何度も繰り返した言葉を、先取りして口にした。

 「『この世界を、終わらせる方法。それはね──誰かの、恋の代償なの』って」


 夜々ちゃんの瞳から、光が消えた。

 その時、ホームに電車が入ってきた。轟音と共に、風が吹き荒れる。

 電車は、いつもと同じ場所で止まり、ドアが開く。

 そして、また三秒。

 全てが、リセットされる。


 広告が元に戻る。鳩がもう一度、羽ばたく。スマホをいじっていた男子学生が、また同じLINEを打つ。

 そして、目の前には、白いワンピースを着た夜々ちゃんが、再び立っていた。

 「やっと見つけた」

 彼女はそう言って、笑った。


 でも、今回の彼女の笑顔は、今までとは違っていた。

 それは、どこか挑戦的な、そして、少しだけ寂しそうな笑顔だった。

 わたしは知っていた。この三秒のループの中で、彼女がわたしの存在を、何度も何度も「見つけた」ということを。

 そして、わたしは、彼女がわたしを見つけるたびに、ほんの少しずつ、未来を書き換えていることを知ってしまった。

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