三秒先の、君との終わらない恋。

@ruka-yoiyami

第1話「世界が壊れるより、あなたの笑顔が怖かった」

三秒前から世界が始まったとして、誰がそれに気づけるんだろう。


 答えは簡単だ。誰も、気づかない。

 気づいたのは、たぶん──運が悪かったからだ。

 今日も、雨が降っている。しとしとと、アスファルトを濡らす弱い雨。でも、わたしには激しい雨のように感じられた。耳鳴りがする。頭の奥で、カチカチと時計の針が動くような音が鳴り響く。


 駅のホーム。黄色い線の内側。電車を待つ人々は、いつもと同じ場所に立っている。電光掲示板の時刻表示は、止まらない。止まっているのは、わたしだけ。世界だけ。いや、違う。世界が止まっているんじゃない。わたしが、世界に取り残されているんだ。


 わたしは、振り返らない。振り返ったところで、誰もいないから。

 「また、三秒」

 わたしは、呟く。それだけで、世界はリセットされる。駅のホームの広告が、一瞬で元に戻る。数秒前に飛び立ったばかりの鳩が、もう一度、羽ばたく。スマホをいじっていた男子学生は、また同じLINEを打っている。画面には、見慣れたメッセージアプリの緑色のアイコン。きっと、くだらないスタンプでも送っているんだろう。


 でも──ひとつだけ、今までと違うことがあった。

 わたしの目の前に、彼女がいた。

 白いワンピース。それが雨に濡れて、少しだけ体に張り付いている。濡れた黒髪は、額にへばりつき、そこから滴が顎を伝って落ちていく。まるで、水の中から現れた人魚みたいだった。手には、小さな、壊れた目覚まし時計を握っている。秒針は止まったままで、時間は動いていない。


 彼女は、まっすぐにわたしを見ていた。その瞳は、吸い込まれるような深さだった。

 そして、ふわりと微笑んだ。

 「やっと見つけた」

 彼女はそう言って、笑った。その笑顔は、雨上がりの空にかかる虹のように、美しかった。同時に、世界が壊れるよりも、ずっと怖かった。


 この世界で、初めて──誰かが、わたしに話しかけた瞬間だった。

 わたしは、声が出なかった。喉の奥が張り付いたみたいに、何の音も出ない。

 「驚いてる? そりゃそうだよね」

 彼女は、少しだけ肩をすくめてみせた。その仕草は、とても自然で、わたしはこの「三秒ループ」の世界で、初めて自分以外の人間が動いているのを見た気がした。いや、違う。動いているのは、彼女だけじゃない。わたしの時間も、彼女の時間も、今は同じ速さで流れている。


 「私は天宮夜々(あまみや やや)。あなたも、この世界が壊れてるって気づいてるんでしょ?」

 彼女は、少し首を傾げて、わたしの返事を待っている。壊れた目覚まし時計を握りしめるその指先は、まるで時間が止まっていることなんて、どうでもいいかのように見えた。

 わたしは、ゆっくりと頷いた。ようやく、喉の奥から声が絞り出せた。

 「霜月環(しもつき たまき)」

 わたしの声は、雨音にかき消されそうだった。

 夜々ちゃんは、にこりと笑う。その笑顔は、やっぱり少し怖かった。何もかも見透かされているような、そんな気がしたから。


 「環ちゃん、だね」

 彼女は、わたしの名前をゆっくりと口にした。その響きは、普段聞いている自分の名前とは、少し違って聞こえた。まるで、初めて与えられた名前のように。

 「私たち、同じみたいだね」

 同じ。何が、同じなんだろう。ループに気づいていること?それとも、この壊れた世界で、たった二人きりだということ?

 わたしは、再び頷くことしかできなかった。


 「この世界、いつからこんなことになってるんだろうね」

 夜々ちゃんは、ホームの向こう側を眺めた。そこにいる人々は、相変わらず三秒ごとに同じ行動を繰り返している。男子学生は、またスマホをいじっている。その指の動きまで、寸分違わず同じだ。まるで、壊れたロボットみたいに。


 「わたしは……三日前から」

 ようやく、まともな言葉を発することができた。三日前。雨が降り始めた日。あの時から、わたしの世界は、三秒ごとに巻き戻るようになった。

 夜々ちゃんは、目を少しだけ見開いた。

 「私は……もっと前からかな」

 もっと前から。一体、どれくらい?

 わたしは、尋ねることができなかった。尋ねるのが、怖かった。彼女が、どれくらいの時間、この孤独な世界にいたのかを知るのが。


 「まあ、いいや」

 夜々ちゃんは、あっけらかんと言った。

 「どうせ、この世界、すぐに終わるから」

 その言葉に、わたしの心臓が、大きく跳ねた。

 「終わる……って?」

 思わず、問い返した。終わる?何が?

 夜々ちゃんは、また微笑んだ。その笑顔は、今度は少しだけ寂しそうに見えた。

 「だって、この世界、もう壊れてるでしょ? あとは、消えるだけだよ」

 まるで、当たり前のことを言うように、彼女は続ける。

 「でもね、環ちゃん。消える前に、一つだけ、やることがあるんだ」


 彼女は、壊れた目覚まし時計を、そっとわたしの手のひらに乗せた。ひんやりとした金属の感触が、手のひらに伝わる。秒針は、やはり動いていない。

 「この世界を、終わらせる方法」

 夜々ちゃんの声は、雨音に溶けていくようだった。

 「それはね──」


 わたしは、ごくりと唾を飲み込んだ。

 「誰かの、恋の代償なの」

 夜々ちゃんの言葉が、わたしの頭の中を、ぐるぐると回った。

 恋の代償?

 その時、ホームに電車が入ってきた。轟音と共に、風が吹き荒れる。

 電車は、いつもと同じ場所で止まり、ドアが開く。

 そして、また三秒。

 全てが、リセットされる。


 広告が元に戻る。鳩がもう一度、羽ばたく。スマホをいじっていた男子学生が、また同じLINEを打つ。

 わたしの手のひらの上には、壊れた目覚まし時計。

 そして、目の前には、白いワンピースを着た夜々ちゃんが、再び立っていた。

 「やっと見つけた」

 彼女はそう言って、笑った。

 その笑顔は、世界が壊れるより、ずっと怖かった。

 そして、わたしは知っていた。この三秒のループの中で、彼女がわたしの存在を、何度も何度も「見つけた」ということを。

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