第4話「触れる秒針、変わる世界」

三秒。

 世界は、またリセットされた。


 「やっと見つけた」

 天宮夜々(あまみや やや)が、わたしに向かって微笑む。白いワンピース。雨に濡れた髪。手には、壊れた目覚まし時計。

 いつも通りの、最初の三秒。


 だけど、もう同じじゃない。

 彼女の笑顔は、わずかに変わった。その瞳の奥には、今までとは違う、期待のような光が宿っている。


 わたしは、彼女の目を見つめ返す。今回は、何も隠さない。

 「驚いてる? そりゃそうだよね」

 夜々ちゃんは、いつものように肩をすくめた。その仕草は、もうぎこちなくない。まるで、わたしの反応を待っているみたいに。

 「私は天宮夜々。あなたも、この世界が壊れてるって気づいてるんでしょ?」

 彼女の声は、わずかに弾んでいるようにも聞こえた。


 わたしは、ゆっくりと頷いた。

 「霜月環(しもつき たまき)」

 自分の名前を口にするたび、それが、この世界で夜々ちゃんにしか届かない特別な言葉のように感じられた。


 夜々ちゃんは、にこりと笑う。その笑顔は、もう怖くなかった。むしろ、わたしの心を温かくする。

 「私たち、同じみたいだね」

 その言葉には、確信がこもっていた。


 「この世界、いつからこんなことになってるんだろうね」

 夜々ちゃんは、ホームの向こう側を眺める。止まった時間の中で、同じ動きを繰り返す人々。スマホをいじる男子学生の指は、また同じLINEを打とうとしている。


 「わたしは……三日前から」

 わたしは答える。

 「私は……もっと前からかな」

 夜々ちゃんは、目を伏せた。その仕草の意味を、わたしは知っている。彼女が、わたしよりもずっと長い間、この孤独なループの中にいたことを。


 「まあ、いいや」

 夜々ちゃんは、あっけらかんと言った。

 「どうせ、この世界、すぐに終わるから」

 わたしの心臓が、静かに鼓動を打つ。もう跳ねたりしない。彼女の言葉が、現実味を帯びて感じられる。

 「終わる……って?」

 わたしは、問い返す。

 「だって、この世界、もう壊れてるでしょ? あとは、消えるだけだよ」

 彼女は、淡々と続ける。その瞳には、諦めではなく、何かを予感させる光があった。

 「でもね、環ちゃん。消える前に、一つだけ、やることがあるんだ」


 夜々ちゃんは、壊れた目覚まし時計を、わたしの手のひらに乗せようとした。

 わたしは、その手を避けた。そして、背中に隠していた目覚まし時計を、彼女の前に差し出した。

 夜々ちゃんの目が、驚きに大きく見開かれる。そして、その驚きは、すぐに優しい光に変わった。

 「どうして……」

 彼女の声が、震えている。でも、それはもう、困惑の震えじゃない。喜び、あるいは安堵。そんな感情が混じっている。

 「どうして、持ってるの? これは、わたしが初めてあなたに渡すものなのに」


 「この三秒、何十回も繰り返したから」

 わたしは、まっすぐに彼女の目を見て答えた。

 夜々ちゃんの顔から、すっと表情が消える。そして、ゆっくりと、その唇が弧を描いた。それは、今までで一番、嬉しそうな笑顔だった。

 「あなた、気づいてるの? わたしが何をしようとしているか、何を言おうとしているか」

 その声は、震えながらも、弾んでいた。

 「うん。知ってる」

 わたしは、深く頷いた。


 「電車が来る直前に、あなたは私に、こう言うんでしょ?」

 わたしは、彼女が何度も繰り返した言葉を、もう一度、口にした。

 「『この世界を、終わらせる方法。それはね──誰かの、恋の代償なの』って」


 夜々ちゃんの瞳が、強く、激しく輝いた。その光は、まるで暗闇に灯された希望の炎のようだった。

 彼女は、静かに、そしてゆっくりと、問いかけた。

 「……じゃあ、その『恋の代償』ってのが、誰の恋のことか、あなたは知ってる?」

 その問いに、わたしの心臓が、大きく、だけど温かく鼓動を打った。

 電車が、轟音と共にホームに入ってくる。風が吹き荒れる。

 「うん。たぶん……」

 わたしは、電車が止まる直前の、その一瞬に、勇気を出して言葉を絞り出した。

 「たぶん、それは──」


 電車は、いつもの場所で止まり、ドアが開く。

 そして、また三秒。

 全てが、リセットされる。


 広告が元に戻る。鳩がもう一度、羽ばたく。スマホをいじっていた男子学生が、また同じLINEを打つ。

 わたしの手のひらの上には、壊れた目覚まし時計。

 そして、目の前には、白いワンピースを着た夜々ちゃんが、再び立っていた。

 「やっと見つけた」

 彼女はそう言って、笑った。


 だけど、今回の夜々ちゃんの笑顔は、今までで一番、穏やかで、そして、期待に満ちたものだった。

 そして、わたしは知っていた。この三秒のループの中で、彼女がわたしの存在を、何度も何度も「見つけた」ということを。

 そして、わたしは知っている。彼女がわたしに問いかけた言葉の続きを。

 世界は三秒でリセットされる。だけど、私たちの心は、確かに繋がっている。

 次の三秒で、わたしはきっと、その答えを口にする。


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