第46話 夜明けの厩舎

まだ陽の昇らぬ厩舎は、吐く息が白く揺れるほど冷たい

木の扉を開けると、藁の匂いと微かな温もりが広がる

わたしの一日は、馬房の戸を開ける音で始まるのだ

担当しているのは、一頭の栗毛の若駒

陽に照らされれば赤銅のように光る毛並みだが、気性は荒く、初めて手綱を握った時には蹴り飛ばされそうになった

その瞬間、恐怖と共に「こいつは手に負えない」と思った。だが、目を覗き込んだとき、不思議な寂しげな光を見たのだ

その瞳に映ったのは、戦うことしか知らない若さか、

あるいは居場所を求める孤独か

「おまえも必死なんだな」

気づけば、わたしの口から言葉がこぼれていた

それからの日々は、静かな積み重ねだった

ブラシをかける

水を与える

厩舎を掃く

単調に見える作業の中で、わたしたちの距離は少しずつ縮まった

初めは耳を伏せて威嚇していた馬も、今ではわたしの声に耳を傾け、

落ち着いて鼻面を寄せてくるようになった

人に言わせれば、それは「ただの競走馬」であり「経済動物」に

すぎないのかもしれない。

勝てなければ、やがて淘汰される世界

だが、わたしにとっては違う

毎日を共にする家族であり、心の一部だ

朝の静けさに響く吐息や、夜に藁を噛む音――その一つひとつが、わたしの人生を満たしている。

やがて、その馬はデビュー戦を迎えた

小さな競馬場の芝は陽を浴びて輝き、観客席からざわめきが

波のように押し寄せる。

蹄鉄を打つ音が、わたしの胸の鼓動と重なって響く

「頼む、最後まで走り抜けてくれ」

祈るように見守る中、スタートの合図が鳴った

ゲートが開き、栗毛の体が飛び出す

その瞬間、わたしの胸も駆け出した

序盤から先頭を狙うことはできなかった。

馬群に揉まれ、直線に入っても前との差は詰まらない

それでも脚を止めず、ただ必死に駆け続ける。

結果は五着

観客の歓声は勝者に注がれ、彼の名が呼ばれることはなかった。

だが、わたしの目には涙が滲んでいた。

あの荒くれだった馬が、最後まで真っ直ぐに走り抜けたのだ。

勝利には届かずとも、その姿は誇らしかった。

夜、厩舎に戻ると、馬は静かに藁を噛んでいた。

いつも通りの仕草に見えたが、その横顔にはどこか満ち足りた影があった。

わたしは首を撫で、囁く

「よくやったな。また一緒に頑張ろう」

誰もが名を覚える名馬にはなれないかもしれない

新聞の見出しを飾ることもないだろう

だが、蹄音が響く限り、この馬と過ごした時間は確かに輝いている。

たとえ世界が忘れても、わたしの胸の中では永遠だ


明日もまた夜明けが来る

わたしは藁を替え、水桶を満たし、そしてこの馬と新しい一日を始めるのだ。

人に誇れる仕事ではないかもしれない

地味で、名も残らない

――だが、この胸に残る蹄音は、誰にも消せやしない

わたしが生きた証は、馬の息づかいと共に、静かに続いていく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る