それ、そういう意味じゃない


あれは、弟が中学生になる数日前のことだった。


制服の受け取りも終わって、

鞄もピカピカで、

いよいよ“新生活”が近づいている空気があった。


 


ふと、軽い気持ちで言った。

「眉毛くらい、ちょっと整えたら?」


それはほんとうに、“ちょっと”のつもりだった。

眉尻だけ、少し形を整えるとか、

余分な毛を抜くとか、

そういう、雑誌で読んだ“中学生ビギナー指南”の範囲。


 


だが、悲劇は起きた。


 


テレビをぼんやり眺めていたとき、

背中に“気配”が走った。

ふり返ると、そこに──別人がいた。


弟だった。

たしかに、弟の顔ではあった。


でも、眉毛がなかった。


いや、ゼロではない。

“全体的に、均等に薄くなっていた”。


どう見ても、いじる順序と深度を間違えていた。


 


絶句、という言葉の意味を、人生で初めて実感した。

母は取り乱していた。

私も、天を仰いだ。




整えるって、そういうことじゃない。

いや、違う。違うってば。


でも、言ったのは私だ。

「整えたら?」って。




彼は満足そうではなかった。

むしろ、困っていた。


 


もう入学式まで時間がなかった。

眉毛は、そんなすぐには生えてこない。


だから、私は言った。


「洗面台にある育毛剤、塗ってみな」


それしかなかった。

あとは、もう、信じるしかなかった。


 


自室に戻って布団に潜りながら、

なぜ“眉毛”という些細な部位が、

こんなにドラマチックな展開を生むのかを考えていた。


 


人は、言葉を軽く使ってしまう。

“整える”とか、“少し”とか。

でも、それを受け取る側にとっては、

一世一代の儀式だったりする。


 


いま、弟はすっかり大人になっている。

眉毛も、ちゃんとある。


でも、私の中ではあの日の彼が、

ずっと、うっすらと笑っている。


あの春の夕方の、テレビの音と、

天井を見上げる自分の顔とともに。


 


「整える」って、たぶん、

“戻せる”ってことを前提にしてる。


でも実際は、

ぜんぶ“やってみなきゃ分からない”でできてる。


眉毛も、恋も、たぶん。





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