チン、という祈り
通夜は、静かに、滞りなく進んでいた。
誰かが泣き、誰かが語り、誰かが小さく笑った。
思っていたよりもスムーズで、整っていて──
でもどこか、何かが足りない気もしていた。
それが“もういない人のぶん”なのだと、
自然に思い込んでいた。
香の匂いが、記憶の粒を浮かび上がらせていく。
椅子の硬さや、読経のリズムさえ、
“その人”の不在を輪郭づける道具に思えた。
──そのときだった。
「……チン」
耳の奥に、ひとつの音が届いた。
澄んでいて、高くて、短い音。
あきらかに──電子レンジの「加熱完了」の音だった。
ここは葬儀会館。
そんな家電は、あるはずがない。
空耳かと思った。
でも隣の弟と目が合った。
その前の列にいた従兄弟も、微かに振り返っていた。
聞こえていたのは、自分だけじゃなかった。
その瞬間、背骨を伝って何かが走った。
鋭い衝撃と、言いようのない違和感。
でもその中で、なぜか最初に湧いてきたのは──
「可笑しさ」だった。
笑ってはいけない場面で、
笑いが喉の奥からせり上がってくる。
まずい、と思うより早く、息ができなくなっていた。
目尻が痙攣する。腹筋が跳ねる。顔が勝手に崩れていく。
これは“笑い”じゃない。
感情の暴走だ。
でも、どうしようもなかった。
耐えきれず、喫煙所に逃げ込んだ。
煙草の煙が、喉に、肺に、腹に降りてきた。
ようやく、落ち着きはじめた。
そのときふいに思い出した。
祖父は、トースターを使うとき、
タイマーのつまみに、じわじわと力をかけていた。
待つのが苦手な人だった。
早送りするように回して、最後に「チン」と鳴らしていた。
そうだった。
あの音は、電子レンジじゃない。
トースターの音だった。
でも、どちらでもよかった。
あの音が、ただの機械音じゃなかったことだけが、確かだった。
あの「チン」は、
祖父の“生”の余熱のような気がした。
もういない人の“癖”が、
ふいに空気を叩いて、こちらに届いたような。
誰もスイッチを押していないのに、
どこかで“時間が来た”ことだけが、告げられた。
通夜の最中に鳴るには、あまりにも間が良すぎた音。
でもそれはたぶん、
あの人なりの“最後のジョーク”だったのかもしれない。
──笑ってしまった。
それでよかった気がした。
ちゃんと、可笑しかった。
ちゃんと、生きていた証だった。
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