幕間「聖痕の守護者」(ユリ視点)

オコゼ島で桐人が台風の轟音に眠れぬ夜を過ごしている頃、熊本のユリは——


————————————————


——ユリ視点


激しい雨が窓ガラスを叩きつける音で、浅い眠りから目を覚ました。


時計の針は午後九時を過ぎたところを指している。


リビングでは点けっぱなしのテレビが、けたたましい警告音と共に台風の最新情報を繰り返し流していた。



『大型で非常に強い台風は、現在、先島諸島の南東沖を強い勢力を保ちながら北上中です』


『特に離島部では、これまでに経験したことのないような暴風雨に厳重な警戒が必要です』



画面に映し出された、赤く渦を巻く衛星画像。


その中心が、桐人がいるであろう島の位置をゆっくりと飲み込んでいく。



(離島……)



私はスマホを手に取り、何度も天気予報のアプリを更新した。


何度見ても、最悪の進路予想は変わらない。



「まったく、あいつ……。なんでよりによって、こんな時にそんな場所にいるのよ」



苛立ちを紛らわすように悪態をつくが、私の声は不安に震えていた。


台風が来たら交通手段が途絶えて、孤立してしまう離島。


そこで桐人がたった一人、この未曾有の嵐に耐えている姿を想像すると、胸が張り裂けそうだった。



その時、手の中のスマホが鋭く震えた。


画面に表示されたのは「お父さん」の文字。



『ユリ、起きていたか。夜分にすまないが、少し話がある』



電話の向こうから聞こえてきたお父さんの声には、いつものような穏やかさはない。


鋼のような緊張感が張り詰めていた。



「どうしたの、そんな真剣な声で」



『桐人君の件で、動きがあった』



私の背筋が、冷たいものでなぞられたかのように伸びた。



「動きって……まさか、また吸血鬼が?」



『いや、そうではない。だが———』



お父さんが言いかけた時、私はふと、以前桐人から聞いた話を思い出した。



「そういえば、桐人から聞いたんだけど、小学生の時に球磨瑠璃光院(くまるりこういん)で———」



『なに? 瑠璃光院だと!?』



お父さんの声が、驚愕に裏返った。



「う、うん。何か不思議な体験をしたんだって。それで、あの視線の呪いが……」



『なぜそれを今まで黙っていた!』



今まで聞いたことのないお父さんの怒声に、私は言葉を失う。



「だ、だって、ただの子供の頃の不思議な体験かと思って……」



その時だった。電話の向こうで、お父さんのものではない、別の声が静かに響いた。



『なるほど、瑠璃光院でしたか』



低く、年齢も性別も判別できない、不思議な声。


だが、その一言だけで、相手が只者ではないことが痛いほど伝わってきた。



『申し訳ございません』


お父さんの声が、急にかしこまったものに変わる。


『今、娘と———』



『構いません。むしろ好都合です。娘にも、聞かせておきなさい』



(お父さんが、こんなに緊張する相手って……)



私は息を呑んだ。組織の幹部である父が、ここまでへりくだる相手とは一体何者なのか。



『十二神将の加護……ふむ、真の加護とは稀なものだ』



謎の人物の声が続く。



『娘よ』



その声が、初めて私に向けられたものだと気づき、心臓が大きく跳ねた。



「は、はい」



『あなたの「もう一つの使命」を理解する時が、来たようです』



「もう一つの……使命?」



『聖痕(せいこん)の守護者。それが、あなたたち一族に与えられた、真の名です』



部屋の空気が変わった。台風の轟音さえもが、一瞬遠のいたような錯覚。



『守護者……』お父さんの声に、長年何かを隠し続けてきた者の苦悩が滲む。



『そうです。神の加護を受けし者は、強大な力と引き換えに、心に深い傷を負いやすくなる』



『お前の父が桐人の記憶を封じたのも、守護者としての務め。あの子が壊れぬよう、支え続けることこそが——』



「じゃあ、お父さんがやったことは……」私の声が震えた。



『必要なことだった』お父さんが静かに答える。


『桐人君があの記憶を抱えたままでは、とても生きていけなかった。だから———』



『その通りです。そして娘よ、あなたもまた、同じ力をその血に受け継いでいます』



「私も……できるの?」



『血は必ず目覚めます。桐人の母がそうであったように』



「叔母さんが?」



『彼女もまた、聖痕の守護者でした。最後まで、己が命を懸けて、息子を守り抜いたのです』



私の目に、熱い涙が滲んだ。優しくて、儚げで、けれど芯の強い人だった叔母さん。


その死の真相を、今初めて理解した。



『嵐の後には、真の嵐が来ます。備えなさい』



謎の人物の気配が遠のいていく。『では、期待していますよ』



その言葉を最後に、電話はお父さんとの通話に戻った。



「お父さん、今の人は――」



『……今はまだ、詳しく話せない。だが、私の姉……桐人君の母も、最後まで守護者としての使命を果たした』


『心が壊れそうになる桐人君を、命に代えても守り抜いたんだ』



お父さんの絞り出すような声に、私の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。



「私も、守る。桐人を、絶対に」



『ユリ……』



「だから教えて。私は、何をすればいい?」



お父さんは少しの間を置いてから、静かに、しかし力強く言った。



『台風が去ったら、一度桐人君に会ってこい。そして、彼の心の状態を、その目で確かめるんだ』



窓の外で、一瞬風が止んだ。台風の目が近づいているのか、不気味なほどの静寂が辺りを包む。


その静寂の向こうで、何かが蠢いている。そんな気配を、私は確かに感じていた。



「聖痕の守護者……」



私は呟いた。もう、ただ心配し、見守るだけの自分ではいられない。


桐人が心の闇に飲まれそうになった時、今度は私が支える。


それが、聖痕の守護者として、私に与えられた使命ならば。

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