第3話「絢音の豹変」

【前回までのあらすじ】

桐人の報告を受けたスニク様は、黒ずくめの男が吸血鬼である可能性を指摘。花房家の忍び・小梅と小菊も協力することになり、警戒態勢が敷かれた。スニク様は久しぶりに自ら動くことも示唆し、事態の深刻さが増していた。

————————————————


今日も剣道部帰りに山本と見回りをしていた。


夕闇が迫る中、街灯がぽつぽつと灯り始めている。



「桐人、相変わらず剣道部の稽古に出てるんだよな?」



「ああ、今日も出てきたぜ」



「最近校内の事情通の間では」


山本がにやりと笑った。



「『あの百合の園に変態の桐人が!』って話題になってるぞ」



「おい、その事情通とやらを殴らせろ」


俺は拳を握った。



(百合の園って何だよ。女子ばっかりの剣道部だからか? )


(そもそも俺は真面目に稽古してるだけだぞ。まあ、視線は胸に向いちまうけどな)



「情報源は明かせないぜ」



「なにそれっぽい事言ってるんだ」



「ジャーナリストの基本だろ?」



「お前いつからジャーナリストになったんだ」



その時————


50メートルほど先に黒ずくめの男が見えた。


前回と同じような格好、長い前髪で顔を隠している。



「おい、山本」


俺が山本の肩を叩いて走り出す。


山本も後を追ってきた。



「おい、何をしてる!」



俺が叫ぶと、黒ずくめの男はゆっくりとこちらに顔を向けた。


髪の隙間から、赤く光る目が一瞬見えた気がした。



それは人間の目ではない、獣のような————いや、それ以上に恐ろしい何かの目だった。



そして驚異的な速さで走り去っていく。



(また逃げやがった。あの速さ、やっぱり普通じゃねえ)



男がいた辺りに女子生徒が倒れていた。



赤いメッシュの入った髪————絢音だ。


俺と山本は男を追いかける事を諦め、山本が絢音を抱き起こした。



「おい、絢音じゃないか。大丈夫か」



俺が声をかけた。



(さっきまで剣道部にいたはずなのに、なんでこんなところに)



山本が肩を揺すると、絢音はゆっくりと目を開けた。



一瞬、ぼんやりと辺りを見回したかと思うと————


突然、にっこりと笑顔を浮かべて、何もなかったかのように土を払いながら立ち上がった。



「あ、桐人先輩♪ どうしたんですか?」



(え? なんだこの反応)



「え? いや、それよりも大丈夫か?」



「大丈夫ですよ~」


絢音が無邪気に答えた。



その笑顔は、今まで見たことがないほど明るい。



「それよりも、わたし、小学校の低学年の時から父親に剣道を習わされていて」



「それなりに自信があったのに、桐人先輩はほんとすごいですよね」


そう言って俺の制服の袖口を軽くつまんで揺すってきた。



(なんだこの態度の変化は。距離近くね? )


(この前まで『さくら様と必要以上に親しくしないでください』とか言ってただろ)



俺は絢音の変わりように戸惑いながらも答えた。



「俺なんてチートみたいなものだから」



「えー? チートってなんですか?」


絢音が小首を可愛らしく傾げた。



「ずるいです。私にも教えてください」


そう言いながら、俺の腕に自分の腕を絡めようとしてくる。



(おいおい、こんなキャラだったか? この前まで俺の事を『この人』呼ばわりして敵視してたやつと同一人物か?)



「うーん、俺もよくわかんないけど、体質的な?」



「もう、桐人先輩、意地悪です~」



絢音がぽんと俺の腕を叩いた。


その仕草も妙に親しげだ。



「あ、そうだ!」


絢音が手を合わせた。



「桐人先輩、明日の放課後空いてますか? 駅前に新しくできたパンケーキ屋さんに一緒に行きませんか?」



(は? なんの誘いだ? しかも、さくら様はどうした? あれだけ崇拝してたのに)



「もし桐人先輩に竹刀を当てられたら」


絢音が上目遣いで俺を見上げた。



「ご褒美に駅前のクレープ屋さんでご馳走してくれませんか?」



(パンケーキからクレープに変わってるし。なんか支離滅裂じゃねえか)



「あ、ああ、いいぜ」



「わーい! じゃあ、桐人先輩。クレープ楽しみにしてます♪」



「明日の稽古、頑張っちゃいますから!」


と言って鞄を拾い、スキップするような足取りで走り去っていった。



(おいおいおい、さくら様はどうした? あれだけ『さくら様、さくら様』って崇拝してたのに、一度も名前が出てこなかった)



俺と山本は思わず顔を見合わせた。



「なあ、桐人」


山本が困惑した表情で言った。



「今の子は大宮さくら親衛隊の隊長格の子だよな?」



「ああ、そうだ。親衛隊ってのはよく知らんけどな」



「じゃあ、今の態度は一体どうなってる?」



山本が頭を掻いた。


「お前にデレてないか? さくら様はどうした」



「いや、俺にもさっぱりだ」


俺は首を振った。



(絢音の様子、明らかにおかしかった)


(この前までさくらを『様』付けで守るとか言ってたのに)


(まるで別人みたいだ)


(それに、あの黒ずくめの男がいたのに、何も覚えていない様子だった)



山本が心配そうに言った。


「なんか変だよな。倒れてたのに、怪我一つないし」



「記憶も飛んでるみたいだし」



「ああ、それに性格まで変わってる」



(これは……)



俺の脳裏にスニク様の話がよぎった。



吸血鬼の話が。


吸血鬼が人間へ及ぼす影響。


精神操作。



(まさか、絢音は吸血鬼に————)



「桐人? どうした?」


山本の声で我に返った。



「いや、なんでもない。とりあえず今日の見回りはここまでにしよう」



「そうだな。なんか不気味だし」



     *  *  *



山本と別れた後、俺は急いで水前寺館に向かった。



夜の闇が深まる中、街灯の光が俺の影を長く伸ばしている。



(絢音のあの変化……普通じゃない)


(さくら様への執着が消えて、俺にデレるって)


(これは完全に何かされてる)



水前寺館の門が見えてきた。


道場には明かりが灯っていて、中から剣戟の音が聞こえる。


さくらがまだ稽古をしているようだ。



俺は道場の扉を開けた。



「桐人?」


さくらが振り返った。



額に汗を光らせ、木刀を下ろす。


「どうしました? 顔色が悪いですが」



「スニク様はいるか?」



「母屋にいらっしゃるはずです」



さくらが心配そうに俺を見つめた。


「何かあったんですか?」



「絢音が……」



俺は今日の出来事を手短に説明した。


さくらの表情がみるみる険しくなっていく。



「絢音が、私への言及もなく……?」



「ああ、まるで別人だった。前は『さくら様』って呼んでたのに」



「これは、スニク様に報告しなければ」



さくらが木刀を置いて、俺と一緒に母屋へ向かった。


スニク様は相変わらずお稲荷さんを食べていた。



「なんじゃ、二人とも血相を変えて」



俺が事の次第を説明すると、スニク様の箸が止まった。



「ふむ……精神操作の可能性が高いの」



「吸血鬼によっては、人間を影響下に置くことができるのじゃ」



スニク様の表情が遠い記憶を辿るように曇った。



「妾も昔、似たような事例を見たことがある……」


その声には、かすかな悲しみが滲んでいた。



「大切な者が、自分の意思とは関係なく動かされる。それを見るのは……辛いものじゃ」



「じゃあ、絢音は————」


「おそらく、その黒ずくめの吸血鬼に何かされたのじゃろう」



スニク様が立ち上がった。



「これは由々しき事態じゃ」



「敵は単に血を吸うだけでなく、精神を操る術も使うとなると」



「明日から、より警戒を強めねばならぬ」



さくらが心配そうに、


「絢音を……助けることはできますか?」



「吸血鬼を倒せば、影響は消えるはずじゃ」



スニク様が扇子を開いた。


「じゃが、問題はその吸血鬼を見つけ出すことじゃな」



「それに、もう一つ気になることがある」



スニク様の目が鋭くなった。


「なぜ絢音は桐人に執着するようになったのか」



「通常、精神操作された者は、吸血鬼の意のままに動く」



「つまり————」


俺は息を呑んだ。



「その吸血鬼は、絢音を使って俺に近づこうとしている?」



「その可能性が高い」



スニク様が頷いた。



「昔も、精神操作された者を使って標的に近づく吸血鬼がおった」



その瞳に、深い悲しみが宿った。



「妾が気づいた時には、もう手遅れじゃった……」



重い沈黙が部屋を包んだ。



「桐人、明日の剣道部では絢音から目を離すでないぞ」



「彼女が次に何をするか————」


スニク様の言葉が不吉に響く。



(絢音は、俺を吸血鬼の元へ誘い込む餌なのか?)



(だとしたら、明日の稽古で何が起こる?)



闇は、すでに俺たちのすぐ近くまで迫っていた。



【次回予告】

絢音の精神操作が判明し、警戒を強める桐人たち。翌日、杵島からさくらの両親を殺した赤髪の女吸血鬼の話を聞かされる。そして、その吸血鬼を倒したのが年若い白夜の一族だったことが明らかに————。

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