第6話 「“最後”だから、もっと近づきたくて」
最後の診療日。
倉田さんの予約は、午後のラスト枠だった。
(このあと、もう誰もいない)
いつもはスタッフの気配が絶えないこの空間も、
今日は、ふたりきりになる時間がある――
そう思っただけで、手が少し震えた。
処置自体は簡単な仕上げ。
歯の表面を整え、最終チェックをするだけ。
でも、私にとっては“お別れの儀式”みたいなものだった。
(今日で最後……なら)
もっと、深く。
もっと、はっきり。
“触れて”みたい――そう思った。
**
ユニットを倒し、
倉田さんの顔が少しこちらを向くよう、
さりげなく角度を調整する。
「失礼します……少し、近づきますね」
その言葉に、彼がわずかに息を飲んだのが分かった。
私は、ゆっくりと前かがみになり――
彼の頬に、
いつもより深く、柔らかく、自分の胸を押し当てた。
ふわっ、という感触のあとに、
はっきりと、彼の身体が固くなるのが伝わってくる。
(……感じてる)
自分の身体を通じて、彼の反応が分かる。
まるで、会話をしているようだった。
**
少し長めに、そこに留まった。
処置するふりをしながら、
私は密かに、彼の顔の熱を肌で感じていた。
ほんの数センチの密着。
だけど、その距離に、全てが詰まっていた。
(私のこと……どう思ってる?)
訊けない代わりに、触れる。
言葉じゃなく、体温で伝える。
彼は目を閉じたまま、
その胸の圧を、逃げずに受け止めていた。
**
処置が終わったあと、
彼は少しだけ視線を泳がせながら、
ゆっくりとユニットを起こした。
マスクを外した私と目が合い、
ふたりのあいだに、数秒の沈黙が流れる。
「……あの、」
「……はい?」
「治療……ありがとうございました。すごく、丁寧で……」
言葉を探すようにしていた彼の声は、
少しかすれていて――その喉の動きに、私の心もざわついた。
「……よかったら、また検診にもいらしてください。
定期的なケア、大切ですから」
精一杯、“歯科衛生士”としての言葉を選ぶ。
だけど、その声は、
きっとどこか甘く滲んでいた。
彼も気づいたのだろう。
わずかに頬を赤らめ、ポケットに手を入れた。
そして、取り出したのは――
スマートフォン。
「……よければ、連絡先……交換してもらえませんか?」
**
心臓が、一瞬止まりそうになった。
(……今、なんて?)
「治療のこととか……聞きたいことがあったら、と思って」
もちろん、それが本当の理由じゃないことなんて、
私たちはもう、分かっていた。
私はゆっくりと頷き、自分のスマホを取り出す。
ふたりで並んで、画面を操作するあいだ、
肩と肩が、わずかに触れ合った。
そのぬくもりが、
胸よりも深いところに、届いていくのが分かった。
(終わりじゃない……)
治療は終わっても、
私たちの関係は、ここから始まる。
私は今、患者じゃない彼を――
ひとりの男性として、もっと知りたくなっていた。
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