第3話 言葉の揺らぎ

家の扉が静かに開き、温かな空気がふわりと流れ出た。

外の空気は夜の草原の匂いを残していたが、一歩中に入ると、香ばしい香りと柔らかな木の匂いが混ざり合い、心の奥をほぐすようだった。


中は、磨き込まれた木の床と、壁に掛けられた織物が目を引く。淡い青と緑の糸で描かれた模様は、森の風や水の流れを表しているように見えた。

囲炉裏の上で、鉄鍋がゆっくりと湯気を立てている。そこから漂ってくる香りは、塩と草の香りが溶け合った、素朴でいてどこか異国的なものだった。


母親らしき女性は、優しい微笑みを浮かべながら、


「さあ、入りなさい。もうすぐ夕餉(ゆうげ)ができるよ」


と手を差し伸べた。


ヒカリは少し緊張しながらも、その手の温もりに導かれるように家へ足を踏み入れた。

奥の部屋からは、重みのある足音と、軽やかな足取りが二つ。

現れたのは、落ち着いた雰囲気の男性と、目を輝かせた少女だった。


囲炉裏の周りに木製の低いテーブルが置かれ、その上には、こんがりと焼かれた根菜と、柔らかそうな肉の煮込み、透き通った緑色のスープが並べられていく。

湯気とともに、異世界の一日の終わりが、ゆったりとしたリズムで流れていった。


囲炉裏を囲むように腰を下ろすと、湯気と香りが視界と鼻を包み込んだ。

温かい空気の中で、ヒカリはふと、自分が見知らぬ家族の輪に入っていることを意識し、背筋がわずかに伸びる。


「さあ、遠慮しないで食べなさい。」


母親が木の器にスープを注ぎながら微笑む。

緑がかった透き通ったスープの中に、小さく刻まれた野菜と、香草の葉が浮かんでいた。


最初に口をつけた瞬間、塩気のあとに優しい甘みが広がり、ヒカリは思わず小さく息を漏らした。


「……おいしい」


その反応に、隣の少女がくすっと笑い、向かいの青年が、興味深そうに口を開く。


「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな。俺はルシアン。この村、リタルの生まれだ。」


ヒカリは少しだけ驚き、そして頷いた。


「……光です。ヒカリ、と呼んでください。」


「ヒカリ……珍しい響きだな。」


言葉を反芻するようにルシアンがつぶやき、その瞳に柔らかな光が宿る。


少しの沈黙の後、ルシアンは何気なく話を続けた。


「今日は森の東側まで木材を運んでいてね。帰りにあの丘の方を通ったら……君が立っていた。」


「……ああ、そうだったんですか。」


「別に特別な理由はないさ。ただ……放っておけなかった。それに、面白そうな人だと思ったんだ。」


笑みとともにそう告げる口調には、からかいよりも真っ直ぐな好奇心が混ざっていた。

ヒカリは戸惑いながらも、不思議と胸の奥が温かくなるのを感じた。


「ルシアン……そして、ヒカリさんね。」


母親が柔らかく頷き、隣に座る男性へと視線を向ける。


「こちらは私の夫、ダリオ。そして、こっちは娘のミレア。」


「ダリオだ。ようこそ、リタルへ。」


低く落ち着いた声とともに、ダリオは軽く顎を引いた。


「ミレアです! ヒカリ姉さん、さっきのスープの顔、面白かったよ!」


小さな笑い声に、ヒカリは思わず頬を染める。


「じゃあ、いただく前に……」


母親――リサナが両手を組む。

その動きに合わせて、家族全員が静かに目を閉じた。

ヒカリも、少し戸惑いながら同じように手を組む。


その瞬間、不意にルシアンと視線が交わった。

瞳の奥に、言葉では説明できない波紋が広がる――

次の瞬間、頭の奥底で声が響いた。


「君が来たんだね…」


思わず息を呑むヒカリ。

ルシアンも、ほんの一瞬、何かを感じたように目を細めた。


「……ルメアに、静寂と調和を。」


リサナの口からそっと落ちた言葉が、ヒカリの耳に柔らかく届く。

ルメア…?

その響きが、胸の奥でかすかに共鳴するのを感じた。


木の温もりが漂う食卓に、ほのかな香草の匂いが満ちていた。

深い茶色のスープには、見慣れない根菜と、小さく刻まれた金色の実が浮かび、噛むとほんのり甘みが広がる。

焼きたての薄いパンは、外が香ばしく中は柔らかい。

家族のやり取りは穏やかで、笑顔と短い言葉が行き交う――まるで、食事そのものがひとつの儀式のようだった。


ヒカリはゆっくりと匙を動かしながら、温かな空気に包まれていくのを感じた。

初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしさが胸に灯る。


やがて食事が終わり、椅子が静かに引かれる音が響く。


「ご馳走さまでした。本当に美味しかったです。」


ヒカリが頭を下げると、リサナが微笑んだ。


「お客様ですのに……手伝ってくださるの?」


「はい。こんなに温かく迎えてもらったから、せめて。」


台所では、水が陶器の器を洗う音と、薪のぱちぱちと弾ける音が重なる。


「あなたの国でも、こうして家族で食事を?」


「……ええ、でも、こんなに静かで落ち着いた時間は……あまり。」


ヒカリの声には、ほんの少し羨望が滲んでいた。


片付けが終わると、居間の隅でミレアが机に向かっているのが目に入った。

机の上には厚い本。表紙には曲線的な記号が並び、ページをめくるたび、同じような不思議な文字が踊る。


「それは……?」


ヒカリが近づくと、ミレアが顔を上げた。


「森の物語。学校の課題なんだ。」


ヒカリはページを覗き込み、眉をひそめた。


――読めない。


一文字も意味を掴めない。

けれど、昼間からこの村の人々とは、何の苦労もなく言葉を交わせていたはずなのに。


胸の奥に、さざ波のような感覚が広がる。

なぜ……私は話せるのに、読めない?


ミレアとの短い会話が終わると、家の中は再び静けさに包まれた。

外では、虫の声と遠くの木々を渡る風の音が、夜の訪れを告げている。

リサナがそっとランプを持ってきて、ヒカリを二階の客間へと案内した。


「ここでお休みください。寒くなったら、この毛布を使ってね。」


ヒカリは微笑んで礼を言い、ベッドに腰を下ろした。

柔らかな布の感触と、木の香りがほのかに漂う。


灯りが消え、闇が部屋を満たしていく。

瞼が重くなり、意識がゆっくりと沈み始めた、その時――。


……風の中に、あの声が混じった。


「君が来たんだね…」


場面は変わり、ヒカリは見知らぬ場所に立っていた。

地面は薄く光を放ち、空は深い群青。

言葉では表せない曲線の文字が、宙を漂い、光の粒となって消えていく。

その文字は、ミレアの本で見たものと同じ形――だが、今は不思議と意味が胸に響いてくる。


耳元で、別の声が囁いた。


「ルメアを…守って…」


けれど、最後の言葉は霞のように途切れ、闇が全てを呑み込む。

ヒカリははっと目を覚ました。

窓の外では、夜明け前の淡い光が広がり始めていた。

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