第2話 異邦のまなざし
あたりは静寂に包まれていた。
空には、淡い雲がゆっくりと流れ、金色の光が草原をやさしく染めていた。
見たこともない鳥たちが、しなやかな翼で空を舞いながら、澄んだ声を響かせていた。
その声はまるで、異なる世界に来たことを優しく囁く子守唄のようだった。
地面には、絹のように柔らかい草が広がっていた。
風が吹くたびに草が揺れ、そのたびに光が波のように流れていく。
空気は暖かく、どこか懐かしい香りが混じっていた。
それは、この場所が現実であることを告げているようだった。
ヒカリは、ただ立ち尽くしていた。
足元に感じる草の感触、肌に触れる風、耳に届く鳥の声──
そのすべてが、あまりにも静かで、そして美しかった。
──君が、ここに来たんだね。
ふと、誰かの声が聞こえた。
それは耳で聞いたのか、心で感じたのか、自分でもわからなかった。
けれどその声は、どこか深くに染み込むように優しく、確かに届いた。
ヒカリは反射的に振り向いた。
そこに──一人の青年が立っていた。
彼女は目を見開いた。
その青年は、まるで最初からそこにいたかのように、自然に佇んでいた。
風と一体化したような静けさ。
その姿には、驚きよりも、不思議と落ち着きを感じさせる何かがあった。
彼の瞳は深いエメラルド色で、太陽の光を反射して、柔らかな光を宿していた。
褐色の肌は、この土地の太陽に親しんでいるようで、力強さと優しさを感じさせた。
そして、その目は──ヒカリをまっすぐに見つめていた。
青年は、ヒカリと目を合わせたまま、静かに瞬きをした。
年齢は二十代前半だろうか。だが、その表情や佇まいには、もっと年上のような落ち着きがあった。
肩まで伸びる黒髪は、ゆるく波打つように風に揺れていた。
着ている服は粗い布で編まれたような手作りの織物で、見たことのない模様が刺繍されている。
それはどこか自然のリズムを感じさせるような、素朴で温かな柄だった。
ヒカリは無意識に自分の姿を見下ろした。
白いジャケット、シンプルだが清潔感のあるシャツ、柔らかい素材のパンツ──
今思えば、この世界ではあまりにも浮いている。
青年の目が、ヒカリの服を見つめていることに気づいたその瞬間、彼が口を開いた。
「君……変わった服を着ているね。まさか、エルセリアの人?」
「エル……セリア?」
ヒカリは思わず聞き返した。聞いたことのない国名だった。
青年は少し首をかしげた。
「じゃあ……どこから来たの?」
その問いに、ヒカリは答えに詰まった。
現実のことを話しても、信じてもらえるはずがない。
それに──自分自身もまだ、何が起きているのかわかっていない。
「……遠くから、たぶん。とても遠くて……ここじゃないところ。」
そう口にすると、青年は一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「そうか……やっぱり、そんな気がした。」
彼はゆっくりと歩き出し、手招きするようにヒカリに視線を向けた。
「ここに立っているだけじゃ、何も始まらない。……村まで案内するよ。きっと疲れてるでしょ?」
ヒカリは静かにうなずき、その後ろを歩き出した。
足元の草が優しく揺れ、遠くで鳥が羽ばたく音がした。
ふたりの足音だけが、広がる草原に淡く重なっていく。
二人は草原を歩いていた。
風が緩やかに吹き抜け、遠くには山の稜線が青く霞んで見える。
言葉はなくても、不思議と気まずさはなかった。
しばらくして、青年がふと空を見上げながら呟いた。
「……ルメアは、今日も穏やかだ。」
「ルメア?」
ヒカリはその言葉に反応した。
それは、聞き覚えのない響きだった。
青年は横目で彼女を見て、少しだけ頷いた。
「この場所の名前。僕たちはそう呼んでいる。
でも、“世界”という感覚とはちょっと違うかも。
空気も、大地も、人の心も、全部ひっくるめて──それがルメア。」
その説明に、ヒカリは少し目を見開いた。
まるで、この世界が「生きている存在」として認識されているかのようだった。
「……あなたは、何者なの?」
ヒカリは、気づけばそう尋ねていた。
青年は微笑んで、胸に手を当てた。
「僕は、ニメア族の一人。森と土地を守る種族だよ。
木々の声や地の振動を感じ取る力があるって言われてる。
僕らの社会は、”共鳴”と”つながり”を大切にしてる。
誰かが泣けば、周りの誰かがそれに気づく。それが当たり前の暮らしさ。」
「……すごい。」
ヒカリは素直にそう思った。
まるで、人の心が空気のように共有される世界。
彼女の目に、ある種の理想郷のようにも映った。
青年は続けた。
「この辺りには、他にも種族がいる。
街に多く住んでるのはユーレリ族。頭の回転が早くて、道具や文字に強い。
あとは、カナシ族……銀の瞳を持つ民。彼らは夜に生きる者たちで、昼間はあまり見かけない。」
「まるで、神話の世界みたい……」
ヒカリがそう呟くと、青年は目を細めてうなずいた。
「でもね……最近、この世界に変な”ひび”が入ってきてる。」
「ひび?」
「ヒビの共鳴……見えない揺れのようなものが人々の心に広がっているんだ。
感情のバランスが崩れたり、突然怒り出したり……
言葉では説明できない不安や孤独が、どこかから染み込んできてる感じがする。」
それは──ヒカリが精神科医として日々向き合っていた“症状”に、あまりにも似ていた。
まさか、この世界にも……?
ヒカリが考え込んでいると、青年が指をさした。
「見えてきた。あれが僕の村、リタルだ。」
遠くの丘の上に、いくつかの建物が見えた。
木で組まれた素朴な家々が、夕陽の中で金色に輝いている。
その景色は、どこか懐かしくもあり、また知らない物語の入り口のようでもあった。
青年は、ふと立ち止まった。
リタルの村まで、もう数歩の距離。
だがその足は、なぜか自然に止まった。
ヒカリも同じように歩みを止めた。
沈黙が、ふたりの間に流れた。
けれどその沈黙には、戸惑いや緊張ではなく、不思議な安心があった。
風が、また一度だけ吹き抜ける。
草の音が波のように揺れ、遠くの鳥が夕陽に向かって飛んでいく。
そのすべてが、まるで世界が呼吸しているかのようだった。
「……変だな。」
青年がぽつりと呟いた。
「何が?」
ヒカリが優しく問い返す。
「君と話していると、不安がすっと引いていく。……理由はわからないけど、静かになるんだ、心が。」
ヒカリは驚いたように彼を見つめた。
けれどその言葉に、なぜか自分も同じことを感じていると気づいた。
「……私も。あなたの言葉を聞いていると……胸の奥が、少しだけ温かくなる気がする。」
互いに見つめ合うその一瞬。
言葉よりも深い何かが、静かにふたりの間を流れた。
まだ名前も知らないふたり。
でも、その心のどこかで、もうすでに何かが始まっていた。
青年が、微笑みながら一歩を踏み出す。
ヒカリもそれに続いた。
そして、ふたりは門をくぐる。
木で組まれた素朴なアーチを通り抜けると、新しい風が彼女の髪を揺らした。
まるで、歓迎の合図のように──
村に一歩足を踏み入れると、そこには静かなざわめきがあった。
夕暮れの光が木造の家々を柔らかく照らし、人々が家の前で何やら作業している。
ヒカリが通り過ぎるたびに、いくつかの視線が向けられた。
だが、その視線には敵意も詮索もなかった。ただ──純粋な好奇心と、戸惑いと、少しの驚き。
「……あの人、何を着てるの?」
「旅人かな?」
そんな声が小さく漏れる中、ひときわ高い声が響いた。
「綺麗な姉さんだー!」
振り返ると、まだ五歳ほどの小さな男の子が、目を輝かせてヒカリを見ていた。
思わず笑みがこぼれ、ヒカリの頬が少し赤く染まる。
だが──その瞬間だった。
──「君が来たんだね……」
あの声が、また頭の奥から聞こえてきた。
誰の声なのか、どこから響いてくるのか。
優しいのに、どこか切ない……それでいて懐かしい。
ヒカリは立ち止まり、声の主を探すように周囲を見渡した。
けれど──
「……失礼。」
隣から、静かに声がかけられる。
振り向くと、青年が穏やかに微笑んでいた。
「まずは僕の家へ案内する。母がきっと君を歓迎してくれる。」
ヒカリは一瞬戸惑ったが、素直にうなずいた。
彼の言葉には、どこか不思議な安心感がある。
案内された家は、木と石で作られた素朴な造りだった。
玄関の扉が開き、ひとりの女性が出迎える。
「ようこそ、遠くからの方。」
優しい声だった。青年の母だとすぐにわかった。
柔らかい笑みと、包み込むようなまなざしが印象的だった。
「疲れたでしょう?まずは中へ。暖かいお茶を淹れてあるの。」
ヒカリは軽く頭を下げ、家の中へ足を踏み入れた。
その瞬間、どこかに響く声が、心の奥でまた揺れた。
──本当に、私はここに来るべきだったの?
そして、静かに扉が閉じた。
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