Lumea
@kitsune00
第1話 静かな夜に舞い込んだ嵐
夜の街は、柔らかな光に包まれていた。
街灯の明かりがアスファルトに溶け込み、遠くの車のライトが川のように流れていく。
そんな平凡な夜に、天野ヒカリは静かに歩いていた。
彼女は若き精神科医。
人の心の闇に触れることを生業としながら、自分の心の傷はまだ癒えていなかった。
忙しい診療の合間に、ふとした時間を見つけては、近所のコンビニへと足を運ぶのが彼女のささやかな息抜きだった。
「今日も、こんな静かな夜が続けばいいのに」
ヒカリは小さくつぶやく。
だが、その夜はいつもとは違った。
空気が一瞬止まったような気配。
遠くで聞こえる風の音が、いつもより重く、鈍く響いた。
彼女の胸に、得体の知れない不安がじわりと広がっていく。
それは、本心からの願いだった。
けれど、彼女の胸の奥には、いつも消えない「空白」があった。
今日もまた、患者の話を聞きながら──ふと、何も感じられなくなった瞬間があった。
相手は泣いていたのに。必死に助けを求めていたのに。
それなのに、自分の心はどこか冷たく、遠くにあるようだった。
「……私、何やってるんだろう」
誰かの心に寄り添うために、精神科医になったはずだった。
だけど最近は、自分の言葉が上辺だけのものに感じてしまう。
そんな自分が、誰かを救えるのだろうか。
いや──そもそも、自分自身が癒されていないのに。
ヒカリは空を見上げる。
きれいな星空が広がっていた。けれど、それすらも胸を満たしてはくれなかった。
ふと、風が吹き始めた。
最初はやさしい春風のようだったが、すぐに肌を刺すような冷たさに変わっていく。
「……え?」
ヒカリは立ち止まり、空を見上げた。
空には一片の雲もなく、星がちらちらと瞬いていた。
だが、風の音だけが不釣り合いに大きくなっていく。
次の瞬間、世界が軋むような音を立てた。
風がうねりを上げ、空がねじれ、時間さえ歪んだように感じた。
まるで、何かに「呼ばれて」いるような感覚。
ヒカリは一歩、二歩と後ずさる。
だが足元が崩れた。いや──地面そのものが、波のように揺れた。
「なに……これ……っ」
買い物袋が風に飛ばされる。
その中身よりも、自分の身体が宙に浮かび上がっていくことに、彼女は気づいた。
光が、夜の空を切り裂いた。
風が、叫び声のように渦巻いた。
すべてが混ざり合い、そして──
──闇。
________________________________________
静けさが戻ったのは、どれほど経ってからだろうか。
まぶたの裏に、やわらかな光が差し込んでいた。
「……ここは……?」
重たいまぶたを開けると、そこには見知らぬ空が広がっていた。
青く、どこまでも澄み切った空。
見上げた木々の葉は、どこか不思議な色合いで、風が鳴る音さえも、どこか現実離れしている。
体を起こすと、そこは草原の中だった。
見たことのない植物、聞いたことのない鳥の鳴き声、
そして──遠くに見える村のような建物。
「夢……じゃないよね?」
自分の手を見つめる。
まだ心臓が、ゆっくりと、だが確かに脈打っていた。
そのとき、ヒカリの胸の奥に、ある感情が芽生えた。
それは恐怖でも、驚きでもない。
ただ──静かな興味。
「……ここはどこ? どうして……私は、ここに?」
風がそっと髪を揺らした。
まるで何かが、彼女を導いているかのように。
ヒカリは草の上に座り込み、深く息を吐いた。
風はまだ静かに吹いている。空はあまりにも青くて、少しだけ、現実味がなかった。
──私は、いったいどこに来てしまったんだろう?
目の前に広がる景色は、どこか絵本の中の世界のようだった。
だが、それでも──夢ではない。
体の感覚、心臓の鼓動、空気の匂い。すべてが、確かに「ここ」に存在している。
「……あり得ない。そんなこと、あるはずがない」
そう思っても、目の前の現実は変わらない。
ここはどこ?
なぜ私がここに?
これは偶然? それとも、誰かの意志?
──私は何かを、試されているの?
胸の奥に、不安が静かに渦巻く。
だが、その奥に、小さな灯火のような感情もあった。
それは──希望に似た、予感。
「……私は、また人の心に触れることができるのかもしれない」
そう呟いたとき、ヒカリの胸の中に、少しだけ温かさが戻った。
立ち上がると、遠くの村へと目を向けた。
彼女はまだ知らない。この村が、やがて彼女の運命を大きく揺るがすことを。
そして、彼女自身の心が、この世界とどう繋がっていくのかを──
ヒカリが村へ向かって歩き出そうとしたその時だった。
草のざわめきに紛れて、誰かの足音が聞こえた。
振り返ると、そこには──一人の青年が立っていた。
まるで風の一部のように、音もなく、自然にそこにいた。
その目は、不思議と懐かしさを含んだ光をたたえている。
見知らぬ服。見慣れない顔。でも、どこかで会ったことがあるような──
「君が、ここに来たんだね」
青年の声は、低く静かで、まるで夢の中で聞く囁きのようだった。
ヒカリは答えられなかった。
何かが胸の奥で、かすかに揺れた。
その瞬間、彼女はまだ知らなかった。
この出会いが、後に彼女の全てを変える「鍵」になることを。
そして、この青年こそが──
彼女自身の心の扉を開く存在になるということを。
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