第4話 心のひび
夜明けの淡い光が差し込む頃、ヒカリはまだ夢の余韻を引きずっていた。
胸の奥に残る声の響きと、あの宙を漂う文字の光景が、現実と夢の境界を曖昧にしている。
二階の窓から見下ろすと、リタルの朝は穏やかに見えた。
だが、よく目を凝らすと、通りを歩く人々の顔に微かな影がある。
下に降りると、リサナが朝食の準備をしていた。
その横で、ミレアは机に向かっているが、どこか集中できない様子で、ペンの動きが何度も止まっていた。
「どうしたの?」
とヒカリが声をかけると、ミレアは小さく首を振り、
「ちょっと…眠れなかっただけ」
と笑おうとしたが、その笑みはわずかに揺れていた。
外からは、誰かが短く怒鳴る声が聞こえた。
窓の外では、二人の男が些細なことで口論している。
ルシアンが慌てて間に入り、落ち着かせようとするが、その目にもかすかな疲労の色が宿っていた。
それは大きな争いではなかったが、朝の静けさをかき乱すには十分だった。いつもは穏やかで人懐っこいこの村に、どこか「異常な」気配が忍び寄っていた。
通りの真ん中で、二人の男が向かい合っていた。
年配の男が腕を振り上げながら、
「だから言っただろう!」
と声を荒げる。
相手の若い男も負けじと、
「そんな些細なことで…!」
と応じる。
原因は、井戸の順番を少し抜かされたという、取るに足らないことだった。
そのやり取りを見た通行人は、眉をひそめながらも足早に通り過ぎる。
空気に張りつめたものが漂い、普段の穏やかな朝とは明らかに違っていた。
ルシアンは二人の間に割って入り、
「落ち着いて、順番はすぐ回ってくるよ」
と宥める。
年配の男は一度深呼吸すると、視線を逸らし、若い男も舌打ちをして背を向けた。
二人が去ったあと、ルシアンは一瞬だけヒカリを見つめた。先ほどの出来事が、彼女の心に疑問を残したに違いないと気づいたかのように。
二人は小声で言葉を交わしながら、家へと歩みを戻した。
「…最近、こういうことが増えてきたんだ」
ヒカリが首を傾げると、ルシアンは続けた。
「些細なことで口論になったり、落ち着きを失う人が多い。眠れないっていう声もよく聞く」
その瞳には、ただの心配以上の色が宿っていた。
家に戻った二人は、台所で朝食の準備を手伝った。
焼き立ての穀物パンの香りと、煮込まれた野菜スープの湯気が部屋を満たす。
外であった険悪な空気が、暖かい匂いに少しずつ溶けていくようだった。
食事の席で、ヒカリは何気なく尋ねた。
「…さっきのこと、よくあるの?」
ルシアンは一瞬言葉を探すように視線を落とし、やがて小さく頷いた。
「2ヶ月ほど前からだ。最初は、眠れないっていう声を何人かから聞くだけだった。でも、日に日に増えていって…」
彼の指が無意識にテーブルの縁をなぞる。
「病じゃない。医者も原因が分からない。けど、夜になると、何かの声を聞くって人がいる」
ヒカリは息を飲む。
「声…?」
ルシアンは短く「そうだ」とだけ答えた。
朝食を終えると、ヒカリはルシアンと並んで村を巡り、ちょっとした作業を手伝って回った。
通りを歩くたびに、ヒカリは小さな違和感を拾い集めていった。
誰かが無表情のまま空を見上げていたり、
作業の手が止まったまま、しばらく動かない職人がいたり。
子供たちまでもが、小石の取り合いで泣き叫んでいる。
一つひとつは取るに足らないことに見えたが、
村全体に、見えない膜のようなものが覆っている感覚があった。
昼下がり、ルシアンと共に市場の外れを歩いていたときだった。
乾いた風が通りを抜け、吊るされた布や草束が小さく揺れる。
ふと、耳の奥に微かなざわめきが入り込んできた。
——「…きみ…が…きた…」
その声は、夢で聞いたものと同じだった。
ヒカリは足を止め、辺りを見回す。
子供たちの笑い声、遠くの鍋の煮える音。どれも現実の音だ。
しかし、先ほどの囁きは確かに耳に残っている。
ルシアンが不思議そうに振り返る。
「どうした?」
「…今、何か…」
ヒカリの言葉は途中で途切れた。
通りの先から、冷たい影のような空気が流れてくるのを感じたからだ。
ヒカリの視線は、通りの先に佇む一軒の家に吸い寄せられた。
村の他の建物とは明らかに違う。
石と木で組まれたその外壁は、まるで古い西洋の屋敷を小さくしたような造りだ。
しかし、長い年月のせいか、壁には蔦が絡み、屋根の端には苔が厚く生えている。
窓の半分は木の板で打ち付けられ、残りは古びたガラス越しに暗闇をのぞかせていた。
その瞬間、またあの囁きが耳に触れた。
——「君が…来たんだね…」
今度は、先ほどよりもはっきりと。
ヒカリの心臓がわずかに跳ね、息が浅くなる。
ルシアンはヒカリの視線を追い、眉をひそめた。
「あそこは……誰も近づかない方がいい」
その言葉に込められた微かな緊張が、ヒカリの胸に残った。
ルシアンが軽く肩を叩く。
「行こう、ヒカリ」
その声は穏やかだったが、背後の家から引き離そうとする意図が感じられた。
ヒカリは足を動かしながらも、視線だけは最後までその家から外せなかった。
絡まる蔦の隙間から、何かがこちらを見ているような錯覚が胸を締めつける。
やがて二人は角を曲がり、家は視界から消えた。
だが、その瞬間——屋内の暗闇で、微かに何かが動いた気がした。
ヒカリは知らない。
その場所に、やがて村人たちが「名もなき影」と呼ぶ者が現れることを——。
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