第41話:暗黒都市ブレマダ
オラース村の夜明けは、数年ぶりに、希望の光と共に訪れた。
ボルグという名の圧制者が倒れ、村には静かな、しかし確かな喜びが満ちていた。
村人たちは、けして豊かとは言えない食料を持ち寄り、ささやかな宴を開いて、リアンたちを心からもてなす。
その席で、マティアスとリリアの兄妹は、改めて一行の前に深く頭を下げた。
「あなた方には、感謝してもしきれない。この村だけでなく、私たちの心まで救っていただいた」
マティアスは、まだ傷の癒えぬ体を引きずりながらも、力強い声で言った。
「これは、我々レジスタンスが命懸けで集めた情報だ。ブレマダへ向かうあなたたちの助けになるかもしれない」
マティアスが差し出したのは、羊皮紙に手書きされたブレマダ内部の地図と、アークの私兵に関する詳細な報告書だった。
それは、ボルグの執務室で見つけた指令書と合わせれば、まさに鬼に金棒だった。
「アークの居城は、街の中央にそびえる『黒曜の尖塔』。だが、そこへ至る道は、アークに絶対の忠誠を誓う『黒蛇騎士団』によって厳重に守られている。正面からの突破は不可能だ……」
「1つだけ可能性があります」
リリアが続けた。
「街の地下には黒市場と呼ばれる巨大な闇市が広がっている。そこは、騎士団ですら手を出せない無法者たちの巣窟。噂では、その闇市の最深部が黒曜の尖塔の地下に繋がっていると言われています」
闇市場。
メリッサがギルドで得た情報と完全に一致した。
そこが、アークの懐へ潜り込むための、唯一の道になるだろう。
翌朝、一行は、村人たちの静かな祈りに見送られながらオラース村を後にした。
村人たちは、決して「頑張れ」とは言わなかった。
ただ、その目に「どうか、生きて帰ってきてほしい」という切実な願いを込めて、一行の背中が見えなくなるまで深々と頭を下げ続けていた。
オラース村の人々の想いが、ずしりと重い。
しかし、それは決して、リアンたちの足枷にはならなかった。
むしろ、その重みこそが覚悟をより一層強固なものにしていた。
オラース村を過ぎると、景色は一変した。
大地は黒くひび割れ、まるで巨大な獣の爪痕のような亀裂が無数に走っている。
枯れ木は天に向かって助けを求める亡者の腕のように、捻じくれた枝を伸ばしていた。
空には、常に鉛色の雲が分厚く垂れ込め、太陽の光を決して通さない。
「……ひどい」
リアンは無意識に懐の短剣を握りしめた。
母の形見の短剣が邪悪な気に反応するかのように、ひんやりと冷たくなっている。
まるで、この地の死を悲しんでいるかのようだ。
そんな死の荒野をさらに3日。
一行は、丘の頂上へとたどり着いた。
そして、その眼下に目的地のブレマダが広がる。
リアンは息を呑んだ。
それは、都市というより、巨大な鉄と絶望の塊だった。
大地から突き出した無数の歪な鉄塔が、鉛色の空を憎々しげに突き刺している。
数えきれないほどの鍛冶場から吐き出される黒い煙が空の雲と混じり合い、街全体を巨大な毒の瘴気で覆っていた。
優美な曲線などどこにもない。
あるのは、ただ、労働のためだけに設計された無慈悲な直線と、鋭角なシルエットだけだ。
そして、その混沌の中心に異質な存在がそびえ立っている。
街の全ての絶望と悪意を吸い上げて創られたかのような、巨大な黒曜石の塔。
アークの居城『黒曜の尖塔』だ。
それは、まるで夜そのものが、巨大な刃となって地上に突き刺さっているかのような、神々しささえ感じさせる、絶対的な悪の象徴だった。
「……これがブレマダ……」
リアンの声は、かすれていた。
この街に父がいる。
そして、父を世界を狂わせる元凶がいる。
一行は、ボルグの部屋から手に入れた地図を頼りに街を大きく迂回し、城壁のすぐ外側を流れる汚泥の川沿いにある、深い谷間へと向かった。
そこには、苔と蔦に覆われ、巧妙に隠された古い下水道の入り口があった。
「ここだ。リリアたちが言っていた、密輸業者たちが使っていた抜け道……」
メリッサが周囲を警戒しながら、錆びついた鉄格子に特殊な工具を差し込む。
きしむ音すら立てずに、錠が開いた。
鉄格子の向こう側からは、鼻を突く汚物の匂いと、ぬるりとした冷たい空気が流れ出てきた。
「ブレマダの歓迎は、ちと手荒いみてぇだな」
ナラトはそう言って一行の先頭に立ち、ためらうことなく暗闇の中へと足を踏み入れた。
下水道の中は、想像を絶する不快な空間だった。
足元では、得体の知れない汚水が音を立てて流れ、壁からは粘液質の何かが絶えず滴り落ちてくる。
カイが灯した小さな光の魔法も、周囲の濃密な闇に吸い込まれ、僅か数メートル先しか照らせない。
「気をつけて。古いけど、まだ生きてる罠があるかもしれない」
カイの魔法の光が、壁に仕掛けられた僅かな傷を照らし出した瞬間、メリッサは「伏せて!」と叫んだ。
一行が咄嗟に身をかがめた数秒後、その頭上を、錆びついた巨大な刃が空しく通り過ぎていった。
メリッサの警告通り、一行はそのあとも床が抜け落ちる仕掛けや迷路に遭遇したが、その全てをメリッサの技術で回避していった。
どれほどの時間、歩いただろうか。
やがて、一行の頭上に、地上へと続く錆びた梯子が見えてきた。
ナラトが、慎重に蓋を押し上げる。
地上から、喧騒と、そして、この世のあらゆる悪意を煮詰めたかのような、濃密な空気が流れ込んできた。
一行は一人、また一人と地上へと這い出した。
そこは、ゴミが散乱する薄暗い路地の裏だった。
そして一行は、初めてブレマダの日常を目の当たりにする。
ゴオオオオオン! ドッカン! ドッカン!
絶え間なく続く、巨大な鍛冶場の槌の音。
それは、この街の心臓の鼓動そのものだった。
石畳の道を、鎖に繋がれた無数の人々が、虚ろな目をして歩いていく。
鉱山か、鍛冶場か、どこかの強制労働施設へと送られる奴隷たちだ。
その横を、蛇の紋章をつけた黒蛇騎士団の兵士が、鞭を振り上げ、嘲笑いながら通り過ぎていく。
道端では、手足を失った者や病に冒された者たちが物乞いをしている。
しかし、誰一人として見向きもしない。
酒場からは、さまざまな人種の、しかし誰もが一様に危険な目をしている傭兵たちが、大声で怒鳴り合いながら出てくる。
ここでは暴力が挨拶で、力が通貨なのだ。
リアンたちはフードを目深に被り、壁の影から影へと移動し、身を隠せる場所を探した。
「……何か、腹に入れておきたい。それに、この街の空気を少しでも知る必要がある」
メリッサが冷静に提案した。
一行は露店が並ぶ一角へと向かう。
そこでは、正体不明の干し肉やカビの生えた黒パンが、法外な値段で売られていた。
リアンが比較的人相の良さそうな老婆が営む露店に近づき、黒パンを指さした。
「これを、4つ欲しい」
老婆は、リアンの顔を値踏みするように見つめると、汚れた指で銀貨3枚を示した。
ミレイスなら、銅貨数枚で買えるような代物だ。
リアンがわずかに眉をひそめた、その瞬間。
「……文句があんのか、旅人さんよ」
老婆の声が、蛇のように冷たくなった。
「ここはブレマダだ。嫌ならそこの汚泥でも啜ってな。それとも、黒蛇騎士団様に頼んで、もっと上等な飯を鉱山の底で食わせてもらうかい?」
そのとき、リアンの足元でボロ布をまとった物乞いの男がか細い声で囁いた。
「……旦那……あんたたちの匂いは、綺麗すぎる。ここでは、その清潔さが命取りになるぜ……。もっと汚しな。臭いをつけな。でなきゃ、すぐに嗅ぎつけられる……」
男はそう言うと、震える手を差し出した。
「……情報をやったんだ。恵んでくれ……誰かに見られる前に、早く……!」
リアンは、老婆に言われた通りの銀貨を払ってパンを受け取ると、もう一枚の銀貨を物乞いの男の手に握らせた。
男は信じられないものを見るように目を見開くと、銀貨を懐にしまい込み、瞬く間に人混みの中へと消えていった。
一行は、打ち捨てられた倉庫の裏で、手に入れたパンを無言でかじった。
それは、砂を噛むような味がした。
「……ひでぇ街だ。ラストの連中ですら、ここに比べりゃ、赤子みてぇなもんだったな」
ナラトが心底うんざりしたように言った。
「リリアの情報通り、まずは闇市場を目指そう。そこから、黒曜の尖塔へ潜入するルートを探す」
メリッサが、冷静に告げる。
「ただし、この街では誰一人として信じては駄目だ。さっきの物乞いですら、我々を騎士団に売り渡す可能性があった。ここでは、善意すら罠になりうる」
一行は、改めて周囲を見渡した。
空を覆う黒い煙。
人々の目に宿る絶望。
そして、街の中央に全てを睥睨するようにそびえ立つ、黒曜の尖塔。
ブレマダは、一行を歓迎しなかった。
ただその巨大な鉄の顎を開き、この小さな反逆者たちを、音もなく飲み込もうとしているだけだった。
次の更新予定
リアンとカリオン:闇の宝玉を継ぐ者たち 湯川恭祥(月・水・金19時公開) @yuzawaya
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