第22話 汀老人の誘い≪2≫



 場所はいつもの酒も出す安飯屋だが、賢明が店主に銭を握らせると、衝立で囲った奥へと通された。いつもより皿数の多い料理が並べられ、卓の真ん中に置かれた酒甕からもまたいつもとは違うよい匂いが立ち昇っている。


「すまないなあ、賢明。ありがたく、馳走になるぞ」

 端正な顔を無邪気にほころばせて、盃を差し出した江馬が遠慮なく言う。


「さあ、江ちゃん、飲んでくれよ」

 賢明も酒甕を持ち上げた。


 だが、差し出された盃はすっと賢明の目の前から消えて、かたりと音を立てて卓の上にと戻された。


「えっ、どうしたんだい?」

「ただ酒を飲む前に、まずは、おれに聞かせたいという話のさわりだけでも教えてもらおうか。でないと、あとで、酒が不味いとなっては困るだろう」


 そう言った江馬の顔は笑っているが、目は笑っていない。


――やっぱり、江ちゃんは淘家の男なんだ……。おれが好きなのは、そういう男なんだ――


 以前、江馬の兄の蒼仁を見かけたことがある。供を従えて馬にまたがっていたので、役所に出所する途中だったのだろう。

 

 淘家の若当主が都より戻って来て、河南の治安は格段によくなったという噂を耳にしている。蒼仁の人柄について、ぼやきとも自慢ともとれる口調で江馬からも聞かされている。だが、賢明は思う。淘蒼仁という男は穏やかでいい人だけではない。でなければ、都尉という仕事が務まるわけがない。


  劉家もまた河南でめんめんと続く商売人の家柄だ。江馬にはいつも名前負けしているとからかわれるが、賢明も劉家の端くれにいて、人を見る目はそこそこにある。


「ごめん、ごめん。江ちゃんの言うとおりだ」

 そう言うと、賢明もまた酒甕を卓上に戻した。





 筋道を立てて話すのが苦手な賢明の話を黙って聞いていた江馬だったが、やっと事の次第を理解すると口を開いた。


「へえ、あの爺さんが、おれたち二人を青蘭楼に誘ってくれたのか? いったい、どういう風の吹きまわしだ?」

 そう言いながら、一度は卓上に伏せた盃を再び持ちあげて差し出す。

「あの青蘭楼だぞ、こんな機会でもないと、おれたちには一生縁のないところだよ」

 自分の話を江馬が理解しそして乗り気なことを知って安堵した賢明は、江馬と自分の盃になみなみと酒を満たして言葉を続けた。


「あれ、言ってなかったかなあ。だからさ、おれの兄ちゃんと汀お大尽とは付き合いがあるんだ。知っての通り、劉家は宝玉を扱っているけれど、三番目の兄ちゃんは、女の簪に特別に詳しくてさ。宝玉をあしらった簪を見立てさせたら、右に出る者はいないよ。ほら、髪の白いきれいな女の子、あの子が華仙堂に置き忘れた銀狼石の簪も、汀お大尽に頼まれて兄ちゃんが材料から揃えて腕利きの職人に作らせたものだ」


「ああ、そう言えば、そんな経緯だったな」


「そうだよ。妓楼に気に入った子がいると、汀お大尽は兄ちゃんが見立てた簪を贈るんだ。それでさ、おれと兄ちゃんが兄弟だと知って、おれたち二人を青蘭楼に招いてくれたんだ」


「若い妓女に、片っ端から簪を贈る? いかにも金持ちの道楽というやつか」


「あの時、青蘭楼の女将がいっていたよな。汀お大尽は不老不死の薬を探しているとか、その方法を見つけようとしているとかさあ。それと簪は関係あるのかな?」


 一気に飲み干して空になった盃を差し出しながら、江馬が答える。

「そんな話は、たった一夜を、青蘭楼で遊ぶおれたちには関係ないことだ」


「それもそうだね。じゃあ、待ち合わせは、五日後だよ。それからさ、いらぬお世話だとは思うのだけど。あのさあ……、青蘭楼に着ていく着物のことだけどさ……。あの青蘭楼で遊ぶとなれば、いつもおれたちが着ているような着物じゃ、だめなんじゃないかなあ。ああいうところで遊ぶって、やたら、格式を重んじるらしいよ」


 口いっぱいに食い物を頬張った江馬が怪訝なまなざしをむける。

「そういうものか?」


「そうだよ。来るならそれなりの恰好をしろって、兄ちゃんが煩いんだ。おれのはさ、劉家の箪笥の中にあると思うけれど……。あっ、いや、こんな話、気を悪くしたら、ごめんな」


 天上を見つめた江馬が腕を組んだ。考える時に見せる彼の癖だ。

「おまえの兄ちゃんの言葉にも一理あるな。こんないい顔をしたおれが、たかが着物で、青蘭楼の女たちに見下されるのも、癪と言えば癪だ」


「どうだろう、江ちゃんの着物は、兄ちゃんのを借りようか?」


 天上を見つめていた視線を賢明の顔におとして、にやりと笑った江馬が言い切った。

「あっ、いや、着物を借りる当てならある」


「ああ、それだったら、いいんだ。」

「それよりかさ、賢明。前から気になっていたんだが」

「えっ、なんだよ?」


 まさか、着物の心配までする自分の性癖を、おまえは女のようだと容赦なくからかうのか。そして、自分のひそかな想いに気づき、顔をひそめるのか。

 しかし、違った。


「爺さんのために簪を見立てる兄ちゃんの名前は何ていうんだ」

「えっ? その話? ええと、言っていなかった? 貴明だよ」


 江馬がぷっと噴き出した。


「おまえんちの兄弟ってさ、みんな、絶対に名前負けしているぞ」

「ひどい言いようだなあ。でも、そういう江ちゃん、おれ、嫌いじゃないよ」


 三杯目を継ごうとした賢明の持つ酒甕の口が江馬の盃に当たって、かちかちと音を立てた。

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