第23話 延寧の笑み



 翌日、李下学堂に出かける前に、江馬は義姉・玉容の執務室に立ち寄った。


 拱手の礼をとりながら、江馬がさりげなく見まわしたその部屋は、広くもなく派手派手しくもない。棚や壁に香炉や書画が優雅に飾られている。部屋の真ん中には大火鉢も置かれて、ほどよく暖かい。


 義弟が部屋に入って来た気配に、玉容は卓上に落としていた視線をあげる。それと同時に、女主人の横に立ち、長身をかがめて同じように卓上を見つめていた家宰の延寧も顔を上げた。


 卓上には数字が書き込まれた帳面が幾冊も広げられて積み重ねられている。大きな算盤も置かれていた。二人で淘家の収支を検証していたのだろう。


「義姉上、お願いごとがあって参りました」

「まあ、江馬さんがお願いごととは……。珍しいこと」


 江馬の殊勝な挨拶に、右手に持っていた筆を戻しながら玉容は笑みを浮かべて答えた。すでに彼女は淘家当主の妻としてふさわしく着飾り、顔には化粧もほどこして艶のある美しい黒髪は複雑な形に結い上げられている。


「では、わたくしは後ほど……」

 江馬が口を開く前に、気をきかせた延寧が一歩下がる。慌てた江馬が引き止める。

「たいした用事ではありません。すぐに済みます」


 玉容もまた言った。

「延寧、江馬さんも言っておられます。ここにいなさい。忙しいおまえを探して呼び戻すのは、刻の無駄でしょう」


 その言葉に、延寧は一歩下がったまま無言で従った。


 皇帝から蒼仁に下賜された玉容とともに、都から河南に来たこの男は無口だ。

 もともとの性格なのか、宮中での暮しの中で身についたことなのか、それとも男根を失くして声が変わってしまったことを隠したいのか。だが、それは彼が宦官となった経緯とともに、永遠に彼の口から語られることはないだろう。


 後宮のない河南では宦官は珍しい。それで噂から、宦官とは小太りで短い足でちょこまかと歩き、女のようになよなよとしているものだと、江馬は思っていた。だが、蒼仁・江馬兄弟も、父親が女の器量を好んだのでそれなりの美丈夫だが、延寧はその上をいっていると認めざるを得ない。


 延寧の歳のころは、淘蒼仁と同じか。

 体格も優れてよい男ぶりだ。

 宦官となる前は、さぞ、女たちに騒がれたことだろう。


 こうして、玉容と二人で並んでいると、南修国は小国でありながら、その宮中の絢爛なあり様はどうなっているのかと思ってしまう。


――まあな、宦官がどのようなものであっても、宮中がどうなっていようとも、おれには関係ない――


「江馬さん、遠慮はいりませんよ」

 まさか、義弟が遠く離れた都の宮中に思いを馳せているとは思わない玉容は、なかなか言い出そうとしない彼の態度を、遠慮と思ったようだ。


「義姉上、兄上の着物をお借りできませんか。それも、兄上が若い時に着ておられたものを」

「まあ、そのようなことでしたか」

「李下学堂で、尊師のお祝いが……。ええと、喜寿であったか、卒寿であったか……」

 あらかじめ用意していた嘘を並べたてる。

「そうであれば、新しく仕立てたほうが……」

「そのようなお気遣いは不要です。たった一晩……、いえ、たった一日のことです。それには及びません」


 江馬の言い訳に、小首を傾げてしばらく考えていた玉容だったが、頑な心の持ち主の義弟を説得するのは難しいと諦めたようだ。


「江馬さんと旦那さまは体つきが似ていますから、丈も裄も直す必要もなさそうですね。用意して、届けさせることにしましょう。いつまでに?」

「四日後に。それから、姉上……」

「なんでしょう?」

「兄上にはご内密に。弟に着物を貸すなど、よい気分ではないと思います」

「旦那さまは、そのようなことを気にされる方ではありませんが。でも、江馬さんがそう言われるのでしたら」

「よろしくお願いします」


 拱手して後退って部屋を出た江馬は、戸口で顔を上げた。


 玉容は再び帳面に目を落としている。

 一歩下がっていた延寧もまた玉容の後ろに立って、帳面を覗き込んでいる。


 子を生んでいない皇帝の妃であった美しい女と宦官の美しい男。

 風流を解さない彼でも、一幅の絵に二人の姿を留めておきたいと思う。


――最近の兄上の苛立ちは、このためか? 男根を失っても、男の心は残り女を抱きたいという欲求もあるのだと、聞いたことがある――


 そう思ったとき、延寧が顔をあげた。

 唇の片端をあげて薄く笑ったように見えた。


――碌でもないことで、着物が借りたいのだろう。おまえの嘘などお見通しだ――


 彼の笑みはそう言っているのか。

 それとも宦官の体への同情など必要ないと、言っているのか。

 すぐに顔を伏せたので、確かめようはなかった。


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