第21話 汀老人の誘い≪1≫

 

 河南の街の季節は秋から冬へと移り、今日は特別に西の方角にそびえる銀狼山脈からの風が強い。雪こそまだ混じっていないものの、冷たく乾いた風は土ぼこりを容赦なく巻き上げ、上衣の袖や褲の裾をはためかせる。結って頭頂部に髷を作った髪は薄茶色に汚れ、目を開けているのも難儀だ。


――これじゃ、いい男もだいなしだ――

 自嘲気味に呟く口の中までざらついている。


 近ごろになって急に、今までは穏やかだった兄の蒼仁が何ごとにつけて口煩い。もし人の胸の中に“忍耐の袋”というものがあるなら、その口を閉じる緒が切れかけているに違いない。


 河南の治安を守る仕事が忙しいのか。河南は交易の街で人の出入りが激しく、それに伴って人の犯す罪も多い。それとも、美しい妻と揉め事でもあるのか。どのように美しく賢くとも、子を成さずに十年が過ぎている。下世話な心配事かも知れないが、波風も立つだろう。


 苛立ちのせいかそれとも八つ当たりなのか、江馬を見る目が鋭く、さすがの彼も李下学堂にまじめに通わざるを得ない。


 しかし、尊師の皺だらけの顔を拝むのも今日で十日目だ。そろそろ息抜きが必要だと考えたのは彼の勝手な思い込みだが、抜け出すと決めるとためらいはなかった。だが、せっかく李下学堂を飛び出したところで、劉賢明のいる華仙堂しか行き先を思いつかないのは情けない話ではある。




 淘江馬が華仙堂の扉に手をかけようとしたのと同時に、格子戸の向こうに人影が見えて、勢いよく扉は内側より開いた。


「おまえ、まさか、待ち構えていたのか? 久しぶりだとはいえ、それほど、おれに逢いたかったとか?」


 飛び出してきた男を避けるために、江馬は思わず身を反らせた。

 しかし、満面の笑みを浮かべた華仙堂の若い店主・劉賢明は答える。


「そうだよ、江ちゃんが来るのを待っていたんだ。今日来なければ、淘家に文を出そうかと思っていた。聞いてもらいたい話があったんだ」

「そりゃあ、ちょうどよかった。女からの付け文かと思って開けたら、おまえのミミズがのたくったような汚い字では、災難というものだ」

「ひどい言いようだなあ、江ちゃん」


 口ではそう言い返しながら、賢明の笑みは崩れない。よほど、江馬に伝えたいい知らせがあるのだろう。彼は開けた扉から首を突き出して往来をうかがい、店に向かって歩いて来る客はいないと確かめると、『本日は休店』の札を出して扉を閉めた。


「おい、おい。店を閉めていいのか? そうでなくても、閑古鳥が鳴いているんだろう」

「大丈夫だよ、今日のぶんは十分に稼いでいる」

「へえ。こんなちっぽけな店で、儲けているのか」

「江ちゃん、おれの店の売り上げのこと、気にかけてくれていたんだ。嬉しいなあ」

「あたり前だろう。おまえは、おれの金づるじゃないか」


 その言葉がもたらした喜びに賢明の目が輝いた。淘江馬が自分を必要としてくれている――、その想いに、彼が犬であれば、千切れるほどに尻尾を振ったことだろう。


「だったらさ、今夜の夕飯、奢るよ。江ちゃんがあっと驚く話は、その時だ。支度する間、ちょっと待っていてよ」

「じゃあ、驕りついでに、いつもより美味い酒もつけてくれ」

 据わっても、江馬の軽口は止まらない。

「もちろんだよ」


 女のような柔らかな手で賢明は江馬の肩を押し、店の奥へと誘い、彼がいつも寝転がって客の女たちを見ている長椅子に座らせた。肩に置いた手の下には、鍛えた若い男の固い肉がある。重いものといえば簪くらいしか持たない賢明とは大違いだ。


 なんだかんだと文句を垂れながらも、兄の蒼仁の監視のもと、彼は李下学堂に通い勉学もそこそここなし剣術の稽古も続けていることを、賢明も知っている。


 そのうちに科挙を受けて、この幼なじみは役人となり河南の街から出て行くのだろう。


 彼と簪を扱う商売人の自分とでは、けっして交わることのない道を歩む日が、必ず来る。江馬が自分のことなど思い出さなくなる日が、きっと来る。そう思うと、胸の奥に大きな穴が空いたような気がした。そのあと、自分はどうやって生きていくのか。このまま、刻の流れが止まればよいのにと彼は思った。


「酒が待っているんだ。急いでくれよ」


 江馬のくったくのない言葉に、賢明は我に返った。強い意思で江馬の肩から手を外す。そして江馬に見られないようにと、背中にまわした手を握りしめた。その感触をいつまでも覚えていたい。だが、その思いもむなしく、掌から男の体温は消えていく。


「おれが店じまいの支度をしている間、後生だから、売り物の簪に触らないでおくれよ。この前みたいに、耳かきの代わりにしようなんて、絶対にだめだからな」


 江馬を真似た軽口が、さみしく耳に響く。

 所詮、自分は報われぬ想いを抱えた名前負けした劉賢明でしかないのだ。

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