愛の繭

えのん

第1話 愛の繭

貴方の口から聞きたくは無かった。

「別れよう。」 と。

貴方の気高く、時に穏やかで、凛としたその顔や所作や性格の全てに私は骨抜きだった。盲目な片思い。猪突猛進なアプローチ。チグハグな恋仲。 意を決した同棲。貴方に触れた初夜。ああ、青い。今となっては全てが青く、淡く、美しい。 愛は本当に尊いものだと思えて仕方がなかったあの頃。それなのに、どの頃からか私たちは、性格や考え方の根本的な違いから衝突を繰り返すようになった。


「君より素敵な人はいない。」


そう言葉で私を懐柔しては、持て余す性欲を私に“愛情”と称して捧げてくれていた貴方の隣には、今頃別の女が相手をしているのでしょうか。答えなど聞きたくない。ただ、私の隣には誰もいないというだけ。 今はもう誰も私の隣で愛を囁くこともなければ、愛を交わすことも無い。 ただ存在するのは、一人暮らしをするには広すぎる部屋に、シングルベッドの上で抱き枕に陰部を擦って虚しい絶頂を得ては、醜い劣情を抑え込む毎夜だけ。火照った体とは反対に心はどんどん冷めてゆく。事後、灰色の天井を見つめてはどことなく退廃的な感情を覚える。散乱している沢山のビール缶、ギリギリまで交換を躊躇っている灰皿。暗く、埃臭いこの部屋が私を包んでいる。


 貴方の別れる際の説得は、普段通りの貴方の理路整然とした口ぶりからでは考え難いものだった。


「お互い分からないこともあるし、怒ってばかりだし、辛いんだ。けど君との関係は大事だし、君を好きな事に変わりないんだ。」


「好きだけど、辛いんだ。 衝突の原因が分からない。緊張が解けない。僕たちはこれでも恋仲なのか? ____ 疑っても苦しくても答えは変わらないんだ。」


「僕は君が好きなんだ。 沢山考えた。 それでも好きしかない。 だから、“好き”だから別れるんだ。」



お互いを大事に想い合うには、離れる事しかなかったという彼のアイデア。 とても合理的でいて紳士的。しかし、取り残された私を独りにして、彼は愛の巣を去った。性格も考え方も対象的な、凸凹な恋仲だった私たちの沢山の苦労と愛と温もりを込めた愛の巣を。 

彼との別れを体験し早数年。彼に対する未練と、二人の間に訪れるかもしれなかった明るい未来を得ることが出来なかった深い後悔の念が、未だに私をこの巣に閉じ込めている。


彼が居なくなってから、私は少しでも彼の代わりになるような趣味や場所を探すことに奔走した。それでも一度空いてしまった彼に代わるものを探すことが私には出来ず、心の虚しさを埋めるように、この巣に引きこもるようになっていった。

 ―彼から巣立つことが出来ない。“私たちの未来”から巣立つことが出来ない。

部屋に飾られた写真を何度も見返しては、その度に過去の記憶を手繰り寄せて悦に入る。彼がこの部屋に置いたままにしている僅かな私物を入念に手入れする。その私物に彼の面影を投影しては、寂しさと人肌恋しさから最低な自慰行為を繰り返してしまう。


どうして私を独りにしてしまったの?

辛くても一緒に方法を探せたのではないの?

どうしていつも一方的に決めつけるの?

その目はなんなの?



怒ってるの?



泣いているの?



―黙らないでよ。答えてよ。



答えなさいよ。 ねえ。



泣かないでよ。



私がなんで泣いてるの?



お願い、泣かないで。



寂しいよ。



抱いてよ。



キスして。



脱がして。



責めて。



攻めて。



めちゃくちゃにして。





犯して。



好き。



好き 好き 好き 好き





すき  すき すき すき すき





ごめんなさい。




ごめん ごめん ごめん すき きもちいい すき きもちいい




だいすき





だいすき すき すき だいすき だいすき だいすき だいすきっ___





“だいすき”






―分かっている。もう彼が戻ってこないことなんて。 だってもうここは愛の巣ではないのだから。当時ですらここは愛の巣では無かったのだから。確かに愛の巣としての側面も持ち合わせてはいたのでしょう。しかし、今の私はこんなにも無様だ。昔と何一つ変わらず、彼に依存し続け、彼の存在自体が私の生命線であって生きる意味。もうはじめから手遅れだった。離れても意味なんて無かった。ふと自分の右手を濡らしている愛液を見る。熱く、粘り気のあるそれは、彼を思い出して欲情した、体の正直な答えだった。

体が悦んだ証。私は心のケジメどころか、体の思い出すら払拭することが出来ていない。

私は、自身の愛液に濡れた右中指と薬指をしゃぶった。勿体ない。そう、思ってしまった。



ここは巣じゃない。彼の思い出、彼が私にしてくれたこと全てが糸のように私の周りに纏わりつき、それが形となり私を包んでいる。彼が私を守っている。 “彼の愛”が私の居所となっている。

ここは、彼の私への愛で作られた“繭”。愛の巣ではなく、“愛の繭”。

私は彼の繭の中で過ごし、思い出という過去に縋り、サナギになって過ごしている。しかし私は羽化を望まない。

今はもう存在しない彼の愛を一心に渇望し、出涸らしになっているのにも関わらず、彼の愛で腹を満たし続けた私は異常者なのだ。 自覚があってもなお愚行を止めることが出来ない私が、美しい蝶になって彼のもとを尋ねることなど出来るはずがない。社会との関わりを極力断絶し、廃人の様に日々を浪費してきた私はきっと、毒々しく、汚く、見る人の気分を害してしまう蛾になってしまうに違いない。

 私は蛾になる勇気が無くて、いまだに羽化を恐れている。蛾になった私を彼が認めてくれるはずなどない。醜態を晒す私を、社会が快く受け入れてくれるはずがない。

怖い。 怖い。 蛾になることしか許されないこの現状からも、目を背けて居たい。

ああ、可笑しな男。 最も愛らしく、最も不可解で、最も憎たらしい男。

私をこのような繭に閉じ込めて、なおさら貴方は何がしたいの?

私がこの繭に閉じこもることを予見したうえで、今頃堂々と他の女と寝ているの?

私が蛾になって出てきても、貴方はそんなやさぐれた私をまだ愛してくれるの?




お願い、貴方。私はもうこの繭に閉じこもることが耐えられない。 この繭を壊して。そして中で蠢いている惨めな幼虫を殺して頂戴。 無くなるものなど命しかなくなった今なら、貴方に情けをかけられ、貴方に息の根を止めてもらうことは至上の愛であり、私に残された唯一の救済。

それとも貴方が蛾であったのなら、或いは…





TELLL

「…あっ、もしもし。私 です。 ゴメンね、急に。今大丈夫?」


「よかった。 元気にやってるんだ。 そっか、そっか」



「ねえ、もう離れてしばらく経つけどさ、、、 ねえ。」

「…そう。そうなの。    おめでとう。 人でなし。」



「ケジメ、ついたわ。ありがとう。さようなら。」





彼は言葉で私に救いを与えたみたい。せめてもう一度、あと一度。


彼に強く抱きしめられ愛を得たかった。温かくも冷たい涙が何度も私の頬を伝った。



 

私は薬を飲んで、横になった。もうすぐ世界の帳が落ちる。長い微睡みの中でさえ、貴方を反芻し続けて、私は永遠に還るでしょう。誰かこの繭を見つけて、壊して。砕いて。そしてこの屍に愛の残滓を振りかけてあげて。 せめてこの命尽きるなら、世の理不尽に殺される前に、貴方との思い出と共に。



この愛の繭と共に。

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