第8話 生き物
月潭(げったん)外周の渓谷(けいこく)。せせらぎの音が清冽(せいれつ)な空気に響き、草木と泥土の芳香(ほうこう)が漂う。
徐令(じょ・れい)は渓流(けいりゅう)に立ち、四つの重(おも)く淡金色(たんきんしょく)の星屑(ほしくず)を閃(ひらめ)かせる粋晶石(すいしょうせき)を握(にぎ)っていた。任務完了と功績点(こうせきてん)獲得の安堵(あんど)すべき時であるのに、心臓は巨岩(きょがん)に押し潰(つぶ)されそうな重圧(じゅうあつ)に苛(さいな)まれていた。
彼の視線は眼前の灰褐色(はいかっしょく)の巨岩(きょがん)底部(ていぶ)に釘付(くぎづ)けだ。粋晶石を取り除いた後の岩肌(いわはだ)は異様(いよう)に平坦(へいたん)で、さらに心臓を鷲掴(わしづか)みにするのは──岩の下で微(かす)かに蠢(うごめ)く何かの存在だった。
生き物の心拍(しんぱく)のように、岩を通して微弱(びじゃく)ながら鮮明(せんめい)な搏動(はくどう)が伝わってくる。
言い知れぬ気配が岩の裂目(さけめ)から糸のように滲(にじ)み出ていた。
先程(さきほど)試探(したん)に使った凝水珠(ぎょうすいしゅ)が瞬時(しゅんじ)に消えた光景が、今も脳裏(のうり)に焼き付いている。
「この岩の中……一体何が?」
徐令の呟(つぶや)きに、背筋(せすじ)は冷や汗(ひやあせ)で濡(ぬ)れていた。転生(てんせい)以来、彼が求めたのは「穏(おだ)やかさ」──あらゆる未知(みち)の危険を避けることだ。岩下の存在は、最も触れたくない厄介事(やっかいごと)だった。
粋晶石を即座(そくざ)に収め、痕跡(こんせき)を消去(しょうきょ)しようとした。三十功績点は既(すで)に手中(しゅちゅう)にある。未知の存在に賭(か)ける価値はない。
しかし、心底(しんそこ)から湧き上がる烈(はげ)しい好奇心が彼の手を縛(しば)った。同時に、理屈(りくつ)では説明できない予感(よかん)が脳裏(のうり)を駆(か)け巡(めぐ)る──この存在は、害(がい)のあるものでは……ない?
動かないままの両手(りょうて)は、予想外の行動を取った。徐令は大剣(だいけん)を抜き、深く息を吸い込む……後で後悔(こうかい)するより、今この目で確かめよう。
キーン!
手首(てくび)を翻(ひるがえ)し、道中(どうちゅう)で妖獣(ようじゅう)を斬(き)った鉄剣(てっけん)が鞘(さや)を離れた。刃(やいば)の冷光(れいこう)が、水のように沈(しず)んだ彼の面(おも)を映す。煉気十二層頂点(れんきじゅうにそうちょうてん)の霊力(れいりょく)を剣身(けんしん)に満たし、無駄(むだ)な動きを排(はい)し、蠢(うごめ)く岩面(がんめん)に向かって渾身(こんしん)の一撃(いちげき)を叩(たた)き込(こ)んだ!
ガシャン──!!
耳を劈(つんざ)く金属音(きんぞくおん)が炸裂(さくれつ)!刃が岩面に触れた瞬間、抗(あらが)いようのない逆衝(げきしょう)が襲(おそ)いかかる。徐令の虎口(ここう)が激痛(げきつう)に歪(ゆが)み、剣が手から飛びそうになった。体ごと後退(こうたい)し、渓流(けいりゅう)に水しぶきを上げる。
凝視(ぎょうし)すれば、無骨(ぶこつ)な岩面に残ったのは、一寸(いっすん)ほどの白い斬(き)り痕(あと)だけだった!
シーッ……
裂帛(れっぱく)のような微音(びおん)が続く。斬(き)り痕の縁(ふち)から、銀灰色(ぎんはいいろ)の液体(えきたい)が滲(にじ)み出てきた。粘稠(ねんちゅう)で光沢(こうたく)を帯(お)びている。
しかし徐令の頭皮(とうひ)が痺(しび)れたのは──その液体が生命(せいめい)を持っているように見えたからだ。静止せず、生き物のように岩面で「蠢動(しゅんどう)」し、空気に触れた部分が急速に分裂(ぶんれつ)、凝集(ぎょうしゅう)し、瞬(またた)く間に十数本の細長(ほそなが)い銀灰色の「触手(しょくしゅ)」と化した!それらは狂(くる)ったように舞い、先端(せんたん)が空中で歪(ゆが)み、探(さぐ)るように動く。原始(げんし)的な躁動(そうどう)と……苦痛(くつう)?
徐令の心臓が暴(あば)れ、剣を握る掌(てのひら)は汗で濡れていた。これは如何(いか)なる典籍(てんせき)にも記載(きさい)されていない天材地宝(てんざいちほう)ではない!この不気味(ぶきみ)な形態(けいたい)と生命の律動(りつどう)は、むしろ何らかの……名状(めいじょう)し難(がた)い異形(いぎょう)の生物(せいぶつ)だ!本能的に後退し、体内の霊力を急転(きゅうてん)させ──全力疾走(ぜんりょくしっそう)か、致命(ちめい)の一撃の準備を整える。
「イイ……ヤア……」
徐令が驚疑(きょうぎ)に揺れる中、微(かす)かで不明瞭(ふめいりょう)な、新生児(しんせいじ)の喃語(なんご)のような声が、せせらぎの音を貫(つらぬ)いて彼の鼓膜(こまく)に届いた!途切(とぎ)れ途切れのその声は、言い表せない切迫感(せっぱくかん)に満ち、泣き声にも似ている……狭く暗い空間に囚(とら)われた生命が、必死(ひっし)で救いを求める慟哭(どうこく)のようだ。
その声は徐令の心臓を直撃(ちょくげき)した。
彼の視界(しかい)が突然遠(とお)のいた。眼前で狂乱(きょうらん)する銀灰色の触手。無形(むけい)の枷(かせ)に縛(しば)られ、岩の拘束(こうそく)から逃れようと虚(むな)しくもがく姿。そしてこの無力(むりょく)で、生存欲(せいぞんよく)に満ちた「イイヤア」という声……言い知れぬ既視感(きしかん)があった。
然(しか)り。前世の徐令の最期(さいご)は、まさにこの哀(あわ)れな姿だった。
修為(しゅうい)を廃(はい)され凡人(ぼんじん)と化した彼を、かつて媚(こ)び諂(へつら)った同門(どうもん)たちは手の平(てのひら)を返した。
中には豺狼(さいろう)のような貪欲(どんよく)な目を光(ひか)らせる者もおり、放心状態(ほうしんじょうたい)の徐令が去った後を付(つ)けてきた。過去の嫉妬(しっと)を晴(は)らすためか、彼がまだ何か宝物(たからもの)を持っていると勘違(かんちが)いしたか──
とにかく彼らは容赦(ようしゃ)なく殺戮(さつりく)を開始した。徐令は泥濘(ぬかるみ)に倒れ、もがく力もなく、神魂(しんこん)が消散(しょうさん)するに任せただけだった……その時の境遇(きょうぐう)は、眼前でもがく銀灰色の触手と奇妙に重(かさ)なる。
同病相憐(どうびょうあいあわ)れむ感情が、前世から蓄積(ちくせき)した苦渋(くじゅう)と混(ま)ざり合い、徐令の心に残った最後の迷(まよ)いを打ち破った。
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