腕と肘

@maru36

あの日

「あの、少し聞いてもらってもいいですか。」

 カーキ色のダウンを着て、黒いバックパックを背負った男の子が話し出した。初めて話すその彼はいかにも神妙な面持ちだった。

 

 私はいつも通り、仕事帰りに近所の公園を通り過ぎながら空を見上げていた。今日の空はオレンジが溢れる光を纏い、周りの雲を照らしていた。

「やっぱ夕暮れいいよなあ。」

 私はそんなことを洩らしながら、その公園に入りベンチに腰掛けた。帰り道の小さなため息を消すくらいの綺麗さだ。ブランコやジャングルジムでは、せっせと子供たちが遊んでいる。無言で夕日を見続けていると、隣のベンチに学生くらいの男の子が座ってきた。制服は着ていないが十代くらいだろうか。彼もこの夕日を見たいよなあ、わかるなあと思いながら視線を空へ戻すと、隣の彼は話しかけてきた。

「夕日、綺麗ですよね。」

 予想外の展開に面食らい、私は声を出すことを喉が忘れたようなしゃがれた声で

「そうですね本当に。」

 と返した。

「あの、少し聞いてもらってもいいですか。変な人だと思うかもしれないけど、なんか誰にも言えなくて。」

 彼は私の変な声に被せるように話してきた。よほど切羽詰まっているのだろう。両手を組んで前のめりになっている。

「ああ。もちろん。私でよければどうぞ。」

 私は少しだれたネクタイをぶら下げながら応えた。

「僕、なんていうか。少し前から左腕の真ん中らへんがほんの少し痒くなって。しかも、ちょうど授業中にたまになるんですよ。でもノートもとらないといけないし。先生に気付かれないように静かにシャーペンの上の方で掻くんですけど、いつもそれしてると変だし。だけど薬塗るとか、病院行くとか、そういうほどではないんですよね。」

「それは困りましたね…。」

 私は少し伸びた髭をさすって、続けて応えた。

「だからといって、市役所の相談窓口に行くほどでもない。近所のラッキーストアに行ってどうのこうのって訳でもなさそうですよね。」

「ほんとそうなんです。どんな政治家や弁護士にも解決できなさそうなんです。」

 彼は落ち着いた顔で言った。葉の先が黄色になりかけている木々を、風が揺らした。

 気付けば私も前のめりになっていた。

「いや、実は、私も最近同じようなことがあって…。ほんと奇遇なんだけど…。ちょうど会社のミーティングとかになると、右肘の上らへんがほんの少し痒くなることがあるんですよね。でも意見を言わないといけないし、ミーティングは痒いものも掻ける雰囲気じゃないっていうか。悩んでいるフリして頭を掻いたついでに、肘をなんとなく掻くみたいなもので。この前なんて、大事な商談で右肘の波がきちゃいましたよ。しかも一回じゃなくて、第五波くらいきました。ほんと、どうしたことかと思って参りましたよ。」

 私は少し彼に笑いかけて話した。彼は真顔で話してきた。

「そうなんですね…。僕は左腕。お兄さんは右肘。同じような悩みを抱えていますね。なんか先輩に会えてすごい嬉しいです。」

 彼はくしゃくしゃな笑顔になったが、すぐに真顔に戻って言った。

「…これって何でしょうね。」

 私は組んでいる両手を崩さずに応えた。

「んー…。所謂、神様が与えた産物なのではないでしょうか。もしかしてだけど、ここで絶対してはいけないという場面で、いかにその痒さと戦い、そしてそれを攻略できるのか。それを試されているのかも。つまり、真面目な顔で気付かれないように痒さを回避できる能力。これを、我々はいよいよ身につけるべき時がきてるのではないかと。」

「ああ、そうなのか。」

 彼は静かに頷きながら被せるように話した。

「じゃあ、気付かれないで痒さを回避できればすごいってことですよね。たぶん、ノーベル平和賞並みか、芥川賞並みのような快挙ってことですね。」

「自分がそう思えばそうだし、少なくとも私はそのくらいすごいと思うよ。」

 彼の顔を照らすオレンジ色が次第に碧い色に変わっていく。

「僕、左腕ともっと向き合ってみます。」

 俯いた彼から聞こえてくる声は凛としていた。私は彼をしっかり見据えた。

「…あのさ。君を見て思ったけど。俺も右肘と向き合おうって思ったよ。ありがとう。だって、やっぱりそれを乗り越えるって自分しかできないじゃん。つまり、俺達は自分と戦ってる戦士ってことなんだ。今日から俺達は、さっき出会ったばかりの知り合いなんかじゃなくて、仲間だ。君は腕だし、俺は肘。お互い、自分の痒さに挑むんだ。負けたらそこで試合終了だ。それまでは泥臭く頑張ろうぜ。」

 立ち上がった私は、差し出しかけた右手をしまい、右肘を差し出した。彼も立ち上がり左腕を差し出して、私の右肘に力強くタッチした。その時、全てがスローモーションになり、脳内では、小惑星の衝突を防ぐために宇宙へと向かう感動の映画の主題歌が流れていた。

 すでに子供たちは帰っていて、ベンチに座っている我々しかいなかった。辺りは薄暗くなっていて、電灯が道を照らし出した。おもむろに我々は帰路へと向かっていった。私は、ふと彼の背中を振り返った。彼は、ただの道を歩いているのではない。地球という青い星の上を一歩ずつ歩いていた。電灯に背中を押されながら、私は足早に家へ歩き出した。

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